戴員
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戴 員(たい うん、? - 204年)は、中国の後漢末期の武将。
生涯[編集]
最初盛憲に仕え、孝廉に推挙された[1]。204年に盛憲が孫権に殺害されると同僚の媯覧と共に山中に逃亡し、後に孫権の弟・孫翊に招かれて郡丞として仕えた[1]。しかし戴員は媯覧・辺洪と通じて孫翊を殺害し、さらに辺洪に罪を着せて殺した[1]。この事件を知った孫河が戴員らを非難すると戴員らは孫河をも殺害し、さらに曹操配下の揚州刺史・劉馥と通じて内応しようとしたが、孫翊未亡人の徐夫人と元孫翊配下の孫高・傅嬰らによって媯覧と共に殺された[1]。
『三国志演義』でも同じ顛末をたどるが、最初から孫翊の配下として登場する。