盛憲
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盛 憲(せい けん、155年 - 204年)は、後漢末期の群雄で呉郡太守。字は考章(こうしょう)[1]。子に盛匡。
生涯[編集]
盛憲は度量を持ち、孝廉に推挙されて後漢の尚書郎となり、後に呉郡太守となる[1]。しかし許貢に攻められて呉郡を奪われて追放され、家臣の高岱や許昭らに匿われた[1]。200年に許貢が孫策に殺害されると呉郡太守として復職するが、病気を理由に辞職する[1]。孫策が死去して孫権が跡を継ぎ、呉郡と会稽郡が孫権により平定されると孫権はこれらの土地の有力者を次々と殺害してゆき、盛憲もその標的にされた[1]。
親交があり名声も知っていた孔融は曹操に対して盛憲を登用するように頼み、曹操は盛憲を騎都尉に任命したが、その任命書が届く前の204年に孫権により殺害された[1]。享年50。子の盛匡は曹操の下に逃げ延びた[1]。
盛憲の部下であった戴員と媯覧も逃げ延びて孫権の弟・孫翊に仕えて同年の内に孫翊を殺害した。
『三国志演義』には登場しない。