報恩院 (人物)
報恩院(ほうおんいん、天正2年(1574年) - 承応2年7月15日(1653年9月6日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。丹羽長重の正室。名は不詳。
生涯[編集]
父は織田信長で5女。母については不明である。
丹羽長秀は織田四天王の1人で信長の重臣として信任が厚く、信長の姪である桂峯院を養女として正室に迎えるほどであったが、その桂峯院との間に生まれた嫡子の長重に、信長は天正8年(1580年)に7歳の報恩院と長重の婚姻を命じた。なお、織田信長の重臣の中で二重にわたって婚姻関係が結ばれているのは長秀・長重父子だけであり、その信任の厚さがうかがえる一例となっている。ただし、長重も報恩院も幼少だったためか、実際の輿入れは信長存命中には行われておらず、『丹羽歴代年譜』では天正10年(1582年)7月に羽柴秀吉の介添えによって安土城から佐和山城に輿入れしたとあるため、信長が本能寺の変で死去した翌月ということになる。恐らく、信長没後に織田政権内での勢力を拡大しようと画策する秀吉が長秀に近づくための政略の一環と推定される。
しかし、天正13年(1585年)に長秀が死去し、長重が家督を継承すると丹羽氏の利用価値が低下したことから秀吉は長重の所領を次々に減封した上に家臣団まで取り上げていく。さらに秀吉没後、関ヶ原の戦いで長重は西軍に属して戦後に改易され、後に赦免されて陸奥国白河藩主として復帰しているが、この間に報恩院が何をしていたのかは定かではなく、終始江戸の屋敷で暮らしていたとだけ記録にはある[1]。
長重との間には亀千代、鍋麻呂(この2人は早世)、酒井忠正に嫁いだ娘がいる。光重も報恩院の子とされているが[2]、元和7年(1622年)に生まれた光重の母としては高齢のため(報恩院が数えで49歳)、恐らく養母になったものと思われる。
長重は寛永14年(1637年)閏3月に死去し、報恩院はその16年後の承応2年(1653年)7月15日に江戸で死去した[2]。享年80。信長の子女の中では最も長寿であった。
法名は報恩院殿月岑宗円大姉。墓所は東京都港区の泉岳寺だが、後に改葬されたという[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 岡田正人 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年。 。