垣屋恒総
垣屋 恒総 かきや つねふさ | |||||||||||||||||||||||||
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垣屋 恒総(かきや つねふさ)は、安土桃山時代の武将・大名。因幡国桐山城主(1万石)[1]。
経歴[編集]
父は垣屋光成で、天正20年(1592年)頃に父の死去により家督を相続したと見られている。豊臣秀吉に仕え、朝鮮出兵では朝鮮半島に渡海している武将の中に「垣屋新五郎」の名前が見られ、これが恒総と比定されている。なお、文禄3年(1594年)には常陸介を、慶長5年(1600年)以前に隠岐守を受領名として称していた[1]。
なお、豊臣政権下における垣屋氏は、因幡国鳥取城を居城としていた宮部氏の与力大名であり、その寄親であった宮部長煕が寛永10年(1633年)に関ヶ原の戦いについて記した記録がある。それによると関ヶ原の際、まずきっかけとなる会津征伐に恒総は長煕と共に従軍する。しかし、徳川家康の留守中に石田三成らが畿内で挙兵し、そのため会津征伐に従軍していた諸将が家康の東軍に属して反転西上する際、恒総は木下重堅と共に宮部軍から離脱し、三河吉田城から舟で西に向かったとされている。一方、宮部長煕の別の記録とされる陳状によると、離脱して西軍に属した恒総らを捕縛するために因幡国に向かった、とされており、恒総が因幡に逃亡したと認識されていたようである。
『因幡民談記』によると、石田三成の挙兵の際に恒総は宮部軍の中におらず、大坂城に滞在していたとされており、そのまま西軍に属して伏見城の戦いや大津城の戦いに参加。関ヶ原本戦で西軍が壊滅すると高野山に逃亡したが、そこで東軍に捕捉されて自害したとされている。これは後代の記録であるため、当時の記録である宮部の記録と大いに異なっている。
ただ、関ヶ原の戦い後における恒総の動向は確認できず、また戦後に垣屋氏は改易となっており、西軍に属したことや自害したことは事実だと推定されている[1][2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]