穴山信懸
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穴山 信懸(あなやま のぶとお、? - 永正10年5月27日[1](1513年6月30日))は、戦国時代の武将。甲斐河内の領主。穴山家の当主。穴山信君の曽祖父。
生涯[編集]
父は穴山信介[1]。子に信永、信堯、清五郎、信綱、娘が少なくとも1人はいる。仮名は弥九郎[1]。受領名は伊豆守[1]。官途は兵部少輔、刑部大輔[1]。法号は臥竜、道義斎、道義入道[1]。
信懸は武田信昌、武田信縄、武田信虎の3代にわたって親密な関係を保った[1]。これは信懸の娘が信昌に嫁ぎ、その間に信縄が生まれていたためではないかと推測されている[1]。『菊隠録』によると信懸の娘が当時の武田家の本拠地である川田に居住している事が確認されているため、武田一族かその重臣に嫁いでいた事のみは推測されている。そのため武田家からは重用され、文明16年(1484年)に信昌の名代として古河公方の足利成氏の家臣・狩野氏と共に武蔵称名寺に参詣している[1]。
ただし武田家と通じながら、今川氏親や北条早雲とも良好な関係を築いており、両属の関係にあったようである[1]。文亀3年(1503年)には氏親より『太平記』を借用して書写している[1]。
永正10年(1513年)5月27日、息子の清五郎により暗殺された(『勝山記』)。これは今川氏親か武田信虎か、どちらに属して関係を深めるかをめぐって清五郎と対立した末の事と推測されている[2]。