前燕

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前燕(ぜんえん、337年9月 - 370年11月)とは、五胡十六国時代前期の337年9月から370年11月まで続いた鮮卑慕容部王朝。首都は337年から342年までは棘城、342年から350年までは龍城、350年から357年までは薊城、357年から370年まではである[1]。なお、国号は単に、あるいは大燕[2]であるが、この燕滅亡後に皇族慕容泓が建国した西燕慕容垂が建国した後燕慕容徳が建国した南燕慕容雲が建国した北燕と区別するため、歴史用語では前燕と称される。

概要[編集]

建国[編集]

三国志の時代に鮮卑族は数部族が成長していたが、その中で最も力を持っていたのが慕容部であった[3]。この慕容部の始祖である莫護跋の第2代皇帝明帝の時代である238年司馬懿により行なわれた遼東の公孫淵討伐に従軍して功績を挙げたため、棘城(現在の遼寧省義県)北方に住み着くことを許された[3]。その後、慕容部の部族長は慕容木延慕容渉帰に引き継がれたが、慕容渉帰は宇文部の圧力を避けるために本拠を遼東に移した[3]。慕容渉帰が死去すると、部族長の地位は弟の慕容耐が継ぎ、この慕容耐は禍根を断つために慕容渉帰の息子・慕容廆を殺そうとしたが、殺害には失敗して自らが不満を抱いた部族に殺される始末だった[3]。こうして生き残った慕容廆が285年に17歳の若さで部族長の地位に就く[3]

この頃、中国では魏が西晋に禅譲し、その西晋により統一がなされて三国時代は終焉していた。慕容廆ははじめ西晋と敵対し、西晋領の遼西に侵攻したり鮮卑宇文部や段部夫余と争いながら勢力を拡大していた[3]。しかし間もなく西晋に服従し、鮮卑都督の地位を与えられた[3]289年、慕容廆は遼西徒河の青山(現在の遼寧省錦州市)に移動し、夫余との抗争を再開する[3]294年、棘城に移動して農耕定住生活を開始し、西晋の制度を導入して社会の安定に努めた[3]

西晋では司馬懿の孫・武帝崩御すると皇族間で流血の争いである八王の乱が勃発し、それにより中央政府の支配力は大いに弱まった。この状況を見た慕容廆は307年に鮮卑大単于を自称し、自立の方向を歩みだした[3]309年12月、西晋の遼東太守である龐円が東夷校尉を殺害した事から遼東でも動乱が始まるが、この動乱に乗じて慕容廆は遼東の秩序回復に成功し、遼東における重要勢力として台頭を遂げた[3]311年永嘉の乱により西晋の首都・洛陽により落とされて西晋が実質的に滅亡し、これによる混乱から逃れるために中央の民衆は流民として遼東・遼西に逃げる者も多かった[4]。慕容廆は棘城周辺に成周郡営丘郡冀陽郡という僑郡を設置して積極的に対処したため、流民の多くは慕容廆を頼って帰属する者が多かった[4]。慕容廆はこれらの流民から農耕技術、中原文化を積極的に導入し、さらに多くの人材を取り立てて独自の官僚機構を設置し、政権を形成していった[4]。また、遼東周辺では幽州刺史王浚314年に漢により滅ぼされ、319年には高句麗や宇文部・段部と結ぶ平州刺史・崔毖を破って事実上、遼東・遼西における覇権を確立した[4]。ただし慕容廆はあくまで西晋・東晋と敵対することはなく尊重する立場をとり、316年に西晋が滅ぶと、317年6月に西晋皇族の生き残りである司馬睿に対して皇帝即位を勧める上書を上申した[4]320年代に入ると慕容廆は段部を抑え、さらに漢改め前趙から分裂した後趙に対して東晋と連携して敵対し、325年に宇文部と連携して侵攻してきた後趙の攻撃を退けた[4]

こうして前燕の基礎を築き上げた慕容廆は333年5月に死去した[4]

後趙との戦い[編集]

慕容廆の没後、跡を継いだのは世子の慕容皝であった[4]。ところが同母弟の慕容仁が納得せずに反乱を起こし、この反乱は大規模になり慕容仁は平郭(現在の遼寧省蓋州市)を本拠にして庶兄の慕容翰や宇文部、段部と手を結んで2年以上も反乱を続けた[4]。しかし慕容皝の奇襲により慕容仁は敗れ、反乱は平定された[4]337年9月、慕容皝は燕王に即位し、百官を設置して支配体制を整えた[4][5]。これが前燕の事実上の建国と言われている。ただし慕容皝も父親と同じようにあくまで東晋を尊重する立場に立ち、東晋に対して正式に燕王位を授与するように求め、これは341年に実現した[5]

337年11月、慕容皝は段部と対抗するためにそれまで敵対していた後趙と一時的に和睦し、段部を撃退した[5]。すると338年5月、後趙は数十万の大軍で棘城を前燕を攻め、前燕からも後趙に寝返る者が相次ぐほどの苦戦を強いられたが、息子の慕容恪が後趙軍に奇襲をかけて逆転勝利した[5]340年10月には後趙領に侵攻をかけ、高陽まで進軍してかつての段部の領地を獲得して3万戸余を手に入れた[5]。こうして前燕は中原進出の足掛かりを手に入れ、342年10月龍城遷都した[5]。一方で慕容皝は高句麗にも攻め入り、遷都と同じ年に大攻勢をかけて高句麗の首都・国内城(現在の吉林省集安市)を破壊して当時の高句麗王の父・乙弗利(美川王)の墓を暴き、さらに王の母と妻を捕らえる大勝をあげ、高句麗は343年に前燕に服属した[5]344年1月には宇文部を急襲して滅ぼし、346年1月には夫余を滅ぼし、こうして前燕は東北アジアの強国としての地位を築き上げた[5]

慕容皝は348年9月に死去し、次男の慕容儁が跡を継いだ[5]。その翌年、後趙では石虎崩御して継承争いが起こったため、慕容儁は350年1月、20万余の大軍を率いて後趙侵攻を開始。3月には薊城に遷都した[6]。後趙では継承争いの末に冉魏が成立し、352年4月に冉魏の皇帝・冉閔を捕らえてその首都であるも陥落させた[6]。こうして前燕は後趙領の東半分を獲得し、中原進出を果たしたのである[6]。慕容儁は352年11月、中山で皇帝に即位し、元璽という独自の元号を建ててそれまで形式的とはいえ服従していた東晋から事実上の独立を果たしたのである[6]

全盛期[編集]

慕容儁は後趙や段部の残党を滅ぼし、357年11月に鄴に遷都した[6]。当時、前燕の南には東晋、西には前秦が鼎立していたが、慕容儁は中国統一の野望に燃えて歩兵150万の動員を計画したが、それが実現する前の360年1月に崩御した[6]

跡を継いだのは慕容儁の息子・慕容暐であるが[6]、この慕容暐は若年の上に力量にも欠ける人物だったので、実権は叔父で太宰の地位に就任した慕容恪が握った[7]。この慕容恪は名補佐役で、その主導の下で前燕は南下して勢力を拡大し、364年8月には洛陽を東晋から奪い、366年までに淮北にまで進出した[7]。この時までが前燕の最大版図であり、最も充実した時期であった。

衰退と滅亡[編集]

367年5月、慕容恪が病死し、実権は慕容恪の叔父にあたる太傅・慕容評に移った[7]。ところがこの慕容評は腐敗政治を展開し、前燕は内部から急速に崩壊の道を歩みだす。この状況を見た東晋の司馬・桓温は前燕に対して北伐を開始し、腐敗して弱体化した前燕軍は黄河北岸まで押し込まれ、慕容暐はかつての首都・龍城への還都を検討するまでに至る[8]。しかし慕容暐の叔父・慕容垂が桓温と戦って勝利し、東晋軍を退ける[8]。これにより慕容垂は前燕内で急速に評価が高まるが、それを妬んだ慕容評から殺されそうになったため、やむなく前秦に亡命した[8]。これにより大黒柱を失った前燕は今度は前秦の侵攻を受けることになり、前秦の宰相王猛により洛陽が奪われた。370年9月、前秦軍6万の攻撃を受けた前燕では慕容評率いる40万の大軍で迎撃したが、晋陽(現在の山西省太原市)や上党(現在の山西省長治市)を攻められ、11月には前秦の皇帝・苻堅率いる10万によって前燕の首都・鄴は陥落し、ここに前燕は滅亡した[8]

前燕の皇帝・慕容暐は助命されて鮮卑4万戸と共に長安に連行された[8]383年淝水の戦いで前秦が事実上崩壊すると、慕容暐は殺され、前燕の生き残った皇族は西燕・後燕を建国して自立していった。

国家体制[編集]

前燕は中央の戦乱を利用して積極的に流民を取り入れて人材・文化・技術・官制を定めて国力を増大させた。その甲斐もあって慕容暐の時代には太宰・太傅・太保・太師・太尉・大司馬・司徒・司空といういわゆる八公を頂点とする支配機構が構築されている[7]

また前燕は人口数に恵まれ、慕容皝が歩兵150万の動員を計画したり、前秦が前燕を滅ぼした時に手に入れた戸籍で前燕の人口は998万7935人とされており、全盛期は1000万人の人口を数えていたと考えられている[8]

前燕の歴代君主[編集]

  1. 慕容皝(337年 - 348年)
  2. 慕容儁(348年 - 360年)
  3. 慕容暐(360年 - 370年)
  • 慕容皝は燕王を称し、皇帝には即位していない[9]
  • 慕容儁は352年まで燕王を称した。352年から370年まで歴代は皇帝を称した[9]

前燕の元号[編集]

  1. 元璽(352年 - 357年)
  2. 光寿(357年 - 360年)
  3. 建熙(360年 - 370年)

脚注[編集]

  1. 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P184
  2. 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P151
  3. a b c d e f g h i j k 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P71
  4. a b c d e f g h i j k 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P72
  5. a b c d e f g h i 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P73
  6. a b c d e f g 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P74
  7. a b c d 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P75
  8. a b c d e f 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P76
  9. a b 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P175

参考文献[編集]