北燕
北燕(ほくえん、407年7月 - 436年4月)は、五胡十六国時代の鮮卑族による王朝。国号は単に燕あるいは大燕[1]であるが、歴史的に北燕と称される。首都は龍城[2]。
概要[編集]
名目上の建国者は慕容雲、実質的な建国者は馮跋である。馮跋は後燕の中衛将軍であったが407年7月に後燕の皇帝である慕容熙を殺害した上で慕容雲を新しい天王に擁立して実権を掌握した[3]。これが北燕の建国である。慕容雲は342年の前燕による高句麗攻撃で遼西に移された高句麗人の末裔で、慕容宝の養子になって姓を慕容に改姓していたが、天王に即位すると高に復姓した[3]。馮跋は鮮卑化した漢人であり、祖父の馮和の時代から歴史上に登場してきた一族である[3]。
高句麗人である高雲の即位により高句麗と北燕の関係は改善されたが、後燕の幽州刺史である慕容懿が離反して北魏に降伏するなど北魏との関係は悪化した[3][4]。409年10月、高雲が寵臣の離班や桃仁に殺害されたため、馮跋はこの混乱を鎮圧して自ら天王として即位した[4]。なお、名目上と実質上の建国者が別れるため、また高雲が養子とはいえ後燕の皇族に当たるため、建国した年が407年とも409年ともする説があり、意見が分かれている[3]。
馮跋は政権中枢を皇族の他、漢人を取り立てることで固めたが、従兄の馮万泥や従兄の子である馮乳陳が処遇を不満として反乱を起こすなど、内部は安定しなかった[4]。なお、反乱を起こしたこの2名はいずれも殺されている[4]。
馮跋は北魏との対抗から東晋と友好関係を深め、当時モンゴル平原を支配していた柔然と通婚関係を結び、さらに契丹とも手を結んだ[4]。そして北魏の使者を2度にわたって捕縛する事件を起こしたため、416年から北魏の攻撃を受ける[4]。ただし北魏もこの段階では華北西部を支配しきっておらず、特に夏との対立に苦しんでいたため、北燕への攻撃は大規模なものではなく、北燕と北魏の関係は緊張したまま推移した[4]。
430年9月、馮跋は病に倒れたため、次男の馮翼に国事を委ねたが、自らの子を世子にしようと画策する妾の宋氏により馮跋は幽閉されてしまう[4]。これに対して馮跋の弟・馮弘がクーデターを起こし、この混乱の中で馮跋は死去し、天王位は馮弘が継いだ[4]。
431年、夏を滅ぼして華北西部をほぼ制圧した北魏の太武帝は432年から北燕に対する大規模な攻勢を開始。太武帝は北燕からの移民を奨励するなど政略でも北燕を追い詰めてゆく[4]。これに対する北燕では馮跋の子・馮崇が馮弘の後継に反発して北魏に亡命し、北魏から遼西王に封じられて亡命政権を築いて牽制される始末であった[4]。馮弘は東晋滅亡後に成立した宋との連携強化を試み、435年1月には遂に宋の属国となったが効果は無く、436年3月に北魏の大攻勢を受け、4月に馮弘は高句麗に亡命し、ここに国家としての北燕は滅亡した[5]。
しかし北魏は高句麗に対して馮弘の身柄を引き渡すように圧力をかけ、馮弘は宋への亡命を望んだが果たせず、438年3月に高句麗により殺害されて北燕は完全に滅亡した[5]。
北燕の君主[編集]
- 北燕の歴代君主は皇帝ではなく天王を称した[6]。