西燕
西燕(せいえん、384年4月 - 394年8月)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑慕容部の慕容泓によって建てられた国。ただし短命だったので十六国に数えられていない。首都は長安。386年に長子に遷都した[1]。
歴史[編集]
西燕の建国者は前燕最後の皇帝・慕容暐の弟・慕容泓である。370年11月に前燕が前秦の攻撃を受けて滅亡した際、慕容暐・慕容泓・慕容沖兄弟らは前秦の首都である長安に連行され、慕容泓は前秦の北地長史に、慕容沖は北陽太守に任命された[2]。383年の淝水の戦いで前秦が事実上崩壊すると、384年3月に慕容泓は関東に逃れて鮮卑数千人を糾合し、華陰に戻って自立して叔父の慕容垂に従う形をとった[3]。慕容沖は河東において2万人の兵を集めて挙兵したが、前秦軍に敗れて慕容泓の下に逃れた[3]。その後、慕容泓は10万人を超える勢力をかき集めた。慕容泓は前燕の元皇帝である慕容暐を擁立しようとしたが、慕容暐は慕容泓に燕再建を託して断ったため、慕容泓は4月に燕興と元号を建てた[3]。これが西燕の建国である。ところが慕容泓はわずか2か月後に部下に殺害された[3]。
跡を継いだのは弟の慕容沖で皇太弟を称した[3]。慕容沖は前秦の首都・長安に進軍し、12月に苻堅により慕容暐が殺害されると、385年1月に慕容沖は長安の阿房において皇帝に即位した[3]。間もなく苻堅が慕容沖の勢力拡大を恐れて長安を放棄して逃亡すると、慕容沖は関中に強制移住させられていた鮮卑族を主体にして西燕を長安を中心に関中において建国しようとした[3]。ところが鮮卑の多くは故郷への東帰、すなわち故郷を押さえていた叔父の慕容垂との合流を望んだ[3]。慕容沖はこれを拒否したため、386年1月に東帰を望む部下により殺害されてしまった[3][4]。
慕容沖が殺害されると、西燕の皇帝は半年足らずの間に段随、慕容凱、慕容瑤、慕容忠と頻繁に変わった[4]。これらは全て短期間でクーデターにより殺されては擁立された面々である。ちなみに386年3月、慕容凱は40万の鮮卑を率いて長安から脱出し、慕容忠の時に聞喜(現在の山西省聞喜県)に移っている[4]。この混乱は慕容廆の弟・慕容運の孫である慕容永が第7代皇帝に即位することで収拾され、慕容永は慕容垂が後燕を建国して皇帝に即位したことを知ると、その力を借りるために自ら河東王を称して後燕に従属した[4]。そして前秦の苻丕を撃退した[4]。しかしこの関係は長く続かず、386年9月に慕容永は長子(現在の山西省長子県)へと移って皇帝に即位し、再び自立した[4]。しかしそれは後燕との対立を意味しており、西燕の皇族が後燕に寝返ったり、慕容永が慕容儁や慕容垂の子孫を殺したりするなどしたため、西燕と後燕との対立は深まっていくばかりとなる[4]。力関係では明らかに後燕が優位であり、393年に入ると西燕は後燕に押される一方となる[4]。慕容永は東晋・北魏に援助を求めることで対抗しようとしたが、394年8月に慕容永は後燕に敗れて敗死[4]。ここに西燕は7代10年で滅亡した。
歴代皇帝の全員が天寿を全うできずに殺害された、皇帝権力の非常に脆弱な王朝であった。
西燕の君主[編集]
- 済北王慕容泓(在位:384年)
- 威帝慕容沖(在位:384年 - 386年)
- 燕王段随(在位:386年)
- 燕王慕容凱(在位:386年)
- 燕帝慕容瑤(在位:386年)
- 燕帝慕容忠(在位:386年)
- 河東王慕容永(在位:386年 - 394年)
- 384年、慕容泓は皇帝を称した[5]。
- 386年に西燕の君主は皇帝から燕王、皇帝、大単于・河東王、そして皇帝と頻繁に称号を変更している。最終的に慕容永により皇帝と定められ、以後は滅亡まで皇帝を称した[5]。