南燕
南燕(なんえん、398年1月 - 410年2月)とは、五胡十六国時代に存在した鮮卑族の王朝。首都は滑台。399年に広固に遷都された[1]。前燕の流れを汲む王朝のひとつである。国号は単に燕であるが、歴史的に同時代の他の燕と区別するため南燕と称される。
概要[編集]
南燕の建国者である慕容徳は前燕の皇族で後燕を建国した慕容垂の実弟である[2]。370年に前燕が前秦に滅ぼされた際、慕容徳は慕容暐と共に前秦の首都・長安に連行され、前秦の家臣となる[1]。慕容徳は383年の淝水の戦いで前秦の奮威将軍として従軍したが、この戦いで前秦が東晋に大敗すると兄の慕容垂に従って後燕の建国に寄与した[1]。慕容垂が崩御すると、跡を継いだ慕容宝の時代に車騎大将軍・冀州牧として後燕の南部支配を担当した[1]。後燕は慕容垂が亡くなると急速に衰退し、北魏の侵攻を受けて慕容宝が中山を脱出して龍城に移動した後、中山で一時自立した慕容麟と合流し、398年1月に4万戸を率いて南下し、滑台(現在の河南省滑県)に移って燕王を称した[1]。これが南燕の建国である[1]。
慕容徳は東晋の攻撃を撃退し、前秦の残党である苻広の反乱を鎮圧した[1]。しかし北魏の圧迫に耐え切れず、399年8月に山東の広固(現在の山東省青州市)に遷都し、400年1月に皇帝に即位した[1]。しかし南燕は元々大国である北魏と東晋に囲まれて勢力拡大の余地は無く、その支配地も現在の山東省に限られた小国でしかなかった[1]。それでも慕容徳は戸籍を整備し人材登用に務めて国力増強を図った[2]。また403年12月になると東晋で政変が起こり、桓玄が皇帝に即位して楚が建国されたが、404年3月になると建威将軍・劉裕によるクーデターが起こって桓玄が敗死した[2]。この一連の政変の間に慕容徳は東晋から逃れてきた亡命者を積極的に受け入れ、その結果兵力37万人、人口200万人にまで増加した[2]。これを背景にして慕容徳は東晋攻撃を計画したが、慕容徳自身が重病に倒れてしまい中止され、慕容徳は405年8月に崩御した[2]。
慕容徳の死後、跡を継いだのは甥の慕容超であった[2]。彼は慕容徳の兄・慕容納の子である[2]。しかし慕容超は叔父時代から政権の中枢にあった慕容鐘を排除するなど悪政を繰り広げたため、南燕から国外に対して人材が大量に流出した[2]。慕容超は後秦に従属してその支援を得ることで東晋への侵攻を図り、409年2月に宿豫に侵攻して住民2500人を拉致した[2]。しかしこれは東晋の怒りを買っただけであり、桓玄を倒して東晋を復活させて車騎将軍として実力者となっていた劉裕により3月から侵攻を受ける[3]。南燕軍は対抗しきれず、6月には首都の広固が遂に包囲される。慕容超は宗主国である後秦に支援を求めたが、その後秦も夏の攻撃を受けていたため支援することなど不可能であった[3]。410年2月、広固は陥落して慕容超は捕虜となり[3]、ここに南燕は2代13年で滅亡した。
慕容超は建康に連行され、劉裕により処刑された[3]。