依岡右京進
依岡 右京進(よりおか うきょうのしん、? - 天正14年12月12日(1587年1月20日))は、安土桃山時代の武将。土佐一条氏、次いで長宗我部氏の家臣。土佐国幡多郡伊与野城主[1]。
略歴[編集]
姓名に関しては、依岡 左京(よりおか さきょう)とも伝わる[1]。左京や右京進という官途名だけで、諱に関しては不明である。
最初は一条兼定に仕えたが、天正2年(1574年)に兼定が失政を理由に家臣団によって国外追放にされた際、追放に追い込んだ一条家家老の行為を不義であるとして激怒し、加久見左衛門らと土佐中村を攻めて家老らを殺した。ただし、既に長宗我部元親に通じていたらしく、この際に一条氏の縁者や同調者まで次々と殺す行為に出ている。そして、この功績により元親から500町の所領を安堵された[1]。
以後は元親の家臣となり、天正9年(1581年)の伊予国の北ノ川城の攻撃で、桑名太郎左衛門と共に活躍し、城将の北ノ川左衛門大夫と一騎討ちして首級を取り、勇名を轟かせたという[1][2]。
天正10年(1582年)、織田信長と元親の関係が悪化し、信長により四国征伐の軍勢が派遣されようとした直前に、元親の命令で右京進が信長の下へ赴いて交渉するように命じられたが、同年に本能寺の変が起こって信長が死去したので、右京進は本能寺の直後の畿内の様子を元親に報告した。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐で元親が土佐国だけを安堵される豊臣政権下の大名に収まると、元親と共に上坂して秀吉に謝意を示す役割を務めた[2]。
天正14年(1586年)、元親が秀吉の命令で九州征伐に参戦することになり、共に参加する。しかし12月の戸次川の戦いで元親の嫡男・長宗我部信親らと共に戦死した。依岡家の家督は、子の依岡源兵衛が相続した[2]。