伊木騒動

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

伊木騒動(いぎそうどう)とは、江戸時代前期に播磨国山崎藩で発生した御家騒動である。伊木とはこの騒動の中心人物である伊木伊織から取られたものである。

概要[編集]

藩主・池田輝澄とは[編集]

この騒動を起こした藩主・池田輝澄は、池田輝政の8男[1]で、生母は徳川家康の次女・督姫であった。つまり、家康の外孫である。そのため、6歳の時に家康に拝謁を許され、松平を称することを許され、さらに慶長20年(1615年)6月28日に播磨国宍粟郡に3万8000石の所領を与えられ、山崎に藩庁を構えた。こうして、わずか12歳で諸侯に列したのである。官位に至っても家康の外孫という高貴な身分から、従四位下侍従と小大名では破格の待遇であった。

寛永8年(1631年)8月、同母弟で播磨国赤穂藩主の池田政綱が26歳で若死した。政綱には嗣子が無く、赤穂藩池田家は改易となり、その所領は兄の輝澄に佐用郡2万5000石を加増の形で与えられた。これにより、6万3000石の中堅大名に栄進した[2]

ここまでで言わせて頂くと、輝澄は父親が輝政、母親が督姫という閨閥から出世した苦労知らずで、その家臣団は山崎藩を新規立藩した際の家臣団、弟が早世した際に吸収した家臣団といういわゆる寄せ集め家中であり、しかもそれを統率する輝澄は若くて世間知らず、統率力にも疑問ありの若年藩主ということである。そうなると、この若い藩主を補佐する重臣が必要になるが、それが上席家老に任命された5000石の伊木忠幸(伊織)であった。伊織の父親は輝政の父・池田恒興の時代から池田氏に仕える重鎮で、筆頭家老として3万7000石を食んだ名臣である[3]

家臣団の対立・騒動[編集]

輝澄は病弱であり、そのため侍医に菅友伯を雇っていたが、この侍医を輝澄はことのほか気に入り、菅の言うことなら何でも聞くようになった。輝澄は中堅大名に加増された年に、菅の推挙を受けて浪人小河四郎右衛門家老に登用し、さらに3000石を与えた。これまでは伊木伊織を中心に運営されていた藩政が、こうして伊木派と小河派に分裂して次第に主導権をめぐって争うようになった。

寛永16年(1639年)7月、伊木派の物頭である石丸六右衛門小川三郎兵衛配下の足軽が、小河派の旗奉行別所六左衛門配下の小頭から借りた銀子の返済をめぐって騒動を起こした。この騒動は横目の小寺八郎兵衛や石丸の同僚である物頭11名の取り扱いで喧嘩両成敗として、双方の関係者を処分することで一応の決着をつけた。ところが、この処分を別所が不服として小河四郎右衛門に訴えた。

小河はこれを受け、11名の物頭に、銀子を貸した小頭の処分の取り消しを求めたが、物頭はこれに同意せず、伊木伊織も物頭の判断を支持したため、これが一気に伊木伊織率いる伊木派と小河四郎右衛門率いる小河派の対立にまで発展した。

藩主の輝澄はこの騒動が発生したとき江戸に在府していたが、菅から騒動の顛末を聞いて小河派を是とし、8月中旬に菅を通して伊木派に圧力をかけ、処分の取り消しを命じた。この結果、物頭11名と横目をはじめとした伊木派の藩士とその家族、家来などおよそ100名余りが出奔する事態に陥った。伊織はこの時は山崎藩に留まっていたが、後年になって伊織も出奔して大坂へと走り、さらに脱藩した藩士が輝澄の判断に不満をもって江戸幕府に上訴するまでに至った。

寛永17年(1640年)3月24日、輝澄はこの騒動を何とか収拾するため、親族の播磨国林田藩主・建部政長[4]と池田宗家の岡山藩主・池田光政[5]に対して菅を使者として派遣し、執り成しを依頼した。光政はこれに対し、5月18日に幕府の惣目付である柳生宗矩に斡旋を頼もうとしたが、宗矩は光政に対して色よい返事をしなかった[6]。このため、光政は幕府による寛大な処分は期待できないと悟り、7月13日に老中奉書で意見を求められても何の申し立てもしなかった。下手に騒動に巻き込まれて岡山藩も処分されることを恐れたものと思われる。

決着[編集]

寛永17年(1640年)7月26日、幕府はこの騒動に対して裁決を下した。伊木伊織父子3名と物頭11名、その子4名は切腹、横目の小寺八郎兵衛は自殺した。侍医の菅友伯は、輝澄と伊織の仲を故意に離反させたと見なされて子供と共に処刑。小河四郎右衛門や別所六左衛門、石丸六右衛門、小川三郎兵衛らはそれぞれ大名預かりとなった。そして、藩主の輝澄も騒動の責任を取らされる形で改易処分となり、ここに山崎藩池田家は断絶となり、その身柄は甥の鳥取藩主・池田光仲に預けられることになった。

伊木騒動関連の年表[編集]

  • 寛永8年(1631年) - 池田輝澄が6万3000石に加増される。この年に浪人の小河四郎右衛門を家老に新規登用。
  • 寛永16年(1639年) - 伊木派と小河派との間で、借金問題から対立、騒動が発生。伊木伊織をはじめ伊木派の家臣の多くが出奔。
  • 寛永17年(1640年) - 輝澄、親族の池田光政や建部政長に調停を求めるも失敗。幕府が騒動を知り、輝澄は改易、伊木伊織以下は切腹の処分を下す。

脚注[編集]

  1. 寛政重修諸家譜』では4男とある。
  2. なお、輝澄のこの際の加増分が3万石と『寛政重修諸家譜』や『徳川実紀』寛永17年7月26日条で紹介されているが、佐用郡は幕末の『旧高旧領取調帳』では2万4300石とされており、この時期に3万石は考えにくい。
  3. 池田家履歴略記』では伊織は忠次の弟とされているが、慶長8年(1603年)に61歳で死去した忠次の弟とは年齢的に考えにくい。
  4. 母親が池田輝政の養女。
  5. 輝澄の甥に当たる。
  6. 池田光政日記』では宗矩が「何供にかく敷事」と答えたとある。