関西棋院
関西棋院(かんさいきいん)は、棋道の発展と普及をはかり日本文化の一翼を担う囲碁を伝承することを目的として昭和25年(1950年)9月に設立された囲碁団体である。正式名は一般財団法人関西棋院である[1]。
概要[編集]
近畿を中心として棋戦や囲碁普及などの活動を行っている。所属棋士は134名、32の支部を擁する。大阪府大阪市にある囲碁団体の日本棋院関西総本部は日本棋院の関西支部であり、関西棋院とは異なる法人である。関西棋院独自の棋戦み関西棋院第一位決定戦及び産経プロアマトーナメント戦がある。
- 名称:一般財団法人関西棋院
- 所在地:541-0041 大阪市中央区北浜1丁目1番14号 北浜一丁目平和ビル
- 交通:地下鉄堺筋線・京阪本線 北浜駅 29番出口直結
- 設立:1950年(昭和25年)9月2日
- 事業活動
- プロ棋士の対局の実施運営
- 囲碁大会、囲碁セミナー、囲碁ツアー実施
- 機関紙「囲碁関西」(月刊)の発行
- 免状の発行
- 囲碁の教授
- 囲碁サロンの経営
- 囲碁教室の経営
- こども囲碁道場の経営
- 囲碁ネット事業の運営
関西棋院独立までの経過[編集]
日本棋院設立から昭和初期まで関西の棋士は日本棋院に参加し、関西支部が設立された。独自の大手合を行っていたが、五段以上の昇段は東京以外では認められなかった。
大阪天王寺で第一回大阪アマチュア囲碁大会の席で、関西では碁打ちが生活できないと挨拶したところ、木村鉛鉄を経営していた木村秀吉が橋本宇太郎を支援することになり、30万円の小切手を切り「これを支度金にして橋本囲碁会館を作りましょう」といったが、橋本は橋本囲碁会館などはいりません。関西の囲碁会館を作りたいと答えて、肥後橋で囲碁クラブを始めた。その頃、東京の日本棋院は建物を再建することになり、総裁の津島寿一が「橋本君、大阪で五十万円集めなさい」と募金割り当てを行った。ファンの支持が得られて98万円が集まった。そこで天王寺の細工谷の家を購入し、大阪の囲碁会館とした。木村鉛鉄の木村秀吉社長が募金は合計98万円集まった。それを元に天王寺区細工谷に、戦災を免れた大きい家を買い取り、1948年に関西棋院の看板を掲げた[2]。
財団法人関西棋院を立ち上げたが、独自に大手合を行えず、免状も発行できない。新聞社との交渉や契約も関西棋院に権限がなく、手合いはすべて東京で行われていた。日本棋院本部は東京にあるため、大阪の棋士が対局する時には、必ず本部のある東京まで移動しなければならなかった。特急でも8時間かかる時代である。交通費その他の費用は自己負担であった。日本棋院は関西の棋士を待遇面でも冷遇していた。そこで関西棋院は機関紙「碁」を発刊した。しかし日本棋院との関係はそれまでとは変わりなかった。1950年(昭和25年)には日本棋院と関西棋院の12人ずつの選手による東西対抗戦、及び東西対抗勝ち抜き戦が行われ人気を博した。
その頃、関西支部の実力者である橋本宇太郎は第5期本因坊戦挑戦者となり、岩本薫本因坊を4勝0敗のストレートで破り、本因坊に返り咲いた。すると昭和25年5月19日の橋本宇太郎の本因坊就位式で津島寿一総裁が本因坊位はそれまでの2年制を1年制にすると発表した。日本棋院の当時の津島理事長は棋士ではなく財閥の人間であり、スポンサーとして自分が雇っている棋士をいう通りに従わせていた。タイトルをバックに関西支部側が要求をエスカレートさせてくることを恐れ、1期2年の本因坊戦を1期1年にして、早く本因坊を東京本部に取り戻そうと考え、橋本など在阪棋士達には何も話をせず、毎日新聞と勝手に話を進め発表したのである。これが関西棋院の若手を刺激した。その頃、関西棋院には協調派と独立派がいたが、関西棋院は独立派が昭和25年9月2日に独立宣言を発表し、協調派は日本棋院関西総本部を立ち上げた。独立宣言は、今後、関西棋院名義の免状を発行すること、新聞社との交渉を独自に行うことを日本棋院に通告した。50人いた棋士は東西にたもとを分かち、師弟が分かれた[2]
翌年の本因坊戦の挑戦者は日本棋院の[坂田栄男]]であった。橋本は坂田に圧倒され、4局目まで1勝3敗、橋本はカド番に追い込まれた。第5局の行われる昇仙峡に向かう途中で身延山に参詣し、対戦場に着くと「首を洗って来ました」と一言、記者にコメントした。坂田は浮き足立っていた。この日の対局で勝利し、その後の2局も橋本は連勝し、カド番をしのいで3連勝によりタイトルを防衛した。この勝負に橋本が敗れていれば、関西棋院は解散に追い込まれていたと言われている。この後は、橋本宇太郎と橋本昌二の「両橋本」が関西棋院の二枚看板となり、十段・王座のタイトルを奪うなどの活躍をした。
第45回関西棋院賞[編集]
歴代理事長[編集]
代 | 氏名 | 就任 | 退任 | 肩書 |
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1 | 大屋晋三 | 昭和25年9月 | 昭和32年5月 | 帝人(株)代表取締役社長 |
2 | 木村秀吉 | 昭和32年6月 | 昭和34年2月 | (株)木村鉛鉄化学機械 代表取締役社長 |
3 | 三木助九郎 | 昭和34年3月 | 昭和38年7月 | 大同生命(相)社長 |
4 | 坂口二郎 | 昭和38年7月 | 昭和50年6月 | ユニチカ(株)代表取締役社長 |
5 | 芦原義重 | 昭和50年7月 | 昭和53年12月 | 関西電力(株)代表取締役社長 |
6 | 上枝一雄 | 昭和54年1月 | 昭和61年3月 | 三和銀行(株)相談役 |
7 | 橋本宇太郎 | 昭和61年4月 | 平成6年4月 | 棋士九段 |
8 | 橋本昌二 | 平成6年5月 | 平成10年5月 | 棋士九段 |
9 | 小松健男 | 平成10年5月 | 平成14年5月 | 銀泉(株)取締役会長 |
10 | 和田博 | 平成14年6月 | 平成16年1月 | 大阪大学名誉教授 |
11 | 塩川正十郎 | 平成16年2月 | 平成22年9月 | 東洋大学総長 |
12 | 中川和雄 | 平成22年10月 | 現在 | 元大阪府知事 |