ヴィシー政権

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国旗

ヴィシー政権(ゔぃしーせいけん)は、ナチス・ドイツフランスが占領されたときにフランス南部にできたナチス・ドイツの傀儡政権。国家元首はフィリップ・ペタン。国号をフランス国とした。

成立までの過程[編集]

1939年ナチス・ドイツソビエト連邦ポーランドに侵攻した際、イギリスフランスの連合国はドイツに宣戦布告第二次世界大戦が始まった。しばらくは戦闘が始まらず、「奇妙な戦争」や「まやかし戦争」と言われたが、やがてドイツ軍爆撃機戦車による電撃戦を開始して連合国を圧倒、ダンケルクで連合国を追い詰め、連合国の主力は武器を捨ててブリテン島へ命からがら逃げ出した。そしてドイツ軍はフランス領内に侵攻していった。この時、パリのフランス軍の司令部では即時講和派と徹底抗戦派が激しく議論していたが、ドイツ軍による首都破壊は避けるべきという考えに至り、パリは無防備都市宣言をするに至り、ドイツ軍に抵抗しないようフランス軍に通知を出した。その後、フランスはドイツに降伏した。この時ドイツ政府首脳は、フランス全土をドイツの占領下に置くとドイツ経済に深刻な影響を与えるとしてドイツに協力的なフランス政府を樹立させることに決定した。

概要[編集]

国号はフランス国とし、首都はヴィシーに置かれた。枢軸国の一員とはならなかったが、ドイツ軍に協力させられた。元首は第一次世界大戦でドイツ軍を破り、国民の人気の高かったペタンが就任した。一方、イギリスに逃れた政府組織は亡命政権を樹立し、「自由フランス」を組織してフランス国内でドイツ軍に対してゲリラ戦を行うよう呼びかけた。

国歌は事実上「元帥よ、我らここにあり!」が採用され、従来の「ラ・マルセイエーズ」は演奏禁止となった。

崩壊[編集]

1944年8月19日にペタンが辞任し、翌日には首相も辞任。9月20日にはパリが解放されヴィシー政権の官僚は南ドイツに移動した。

植民地[編集]

フランスは多くの植民地を持っていたため、それらに枢軸国軍隊進駐した。アルジェリアマダガスカルインドシナがそうであった。

大日本帝国との関係[編集]

大日本帝国はヴィシー政府を認め、東京のフランス共和国大使館はフランス国大使館と名称変更した。

参考文献[編集]