フィデル・カストロ
フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Alejandro Castro Ruz、1926年8月13日 - 2016年11月25日)は、キューバの政治家・革命家・軍人・弁護士。弟に後継者のラウル・カストロがいる。
生涯[編集]
1926年にキューバ東部のオリエンテ州(現在のオルギン州)でビランでスペイン系移民の裕福な家庭で生まれる。1945年にハバナ大学法学部に入学したあと、政治史の研究を始め、ここでアメリカの経済支配などに反発して学生運動に傾倒し、1950年に卒業後は弁護士として開業するも、弟のラウルと共にアメリカの傀儡政権と言われたバティスタ政権に対して武装蜂起するが失敗して逮捕される。この際、病院の一室で行なわれた裁判で「歴史が私に無罪を宣告するだろう」と述べたという。1955年に釈放されてメキシコへ亡命する。
1956年12月にチェ・ゲバラと共にキューバ国内に潜入してゲリラ戦を開始し、1959年1月1日にキューバ革命で遂にバティスタ政権を打倒。2月に自ら首相に就任する。その後、キューバにあったアメリカ系企業の工場を接収・国有化するなどして富裕層を圧迫したためにアメリカの怒りを買い、1961年にはアメリカから国交断絶を通告される。同年にはアメリカの支援を受けた亡命キューバ人によるピッグズ湾事件が起こるがそれを抑え、逆に自らのカリスマ性を高めることに成功すると同時に社会主義への転向を目指してソ連に接近して社会主義国家を宣言。1962年には有名なキューバ危機を招いた。
1976年12月に国家評議会議長に選出されて元首に就任し、党・軍・行政の全権を独占する。1991年のソ連崩壊により経済が危機的状況に陥るとベネズエラの支援などで体制を維持。
1996年にキューバを訪問した創価学会の池田大作名誉会長・SGI(創価学会インタナショナル)会長との面会ではおよそ1時間にわたって会談し、革命以来初めてスーツ姿で公式行事に望んだ。その後、フィデルは病気療養中の2007年にSGI(創価学会インタナショナル)のキューバ国内での活動を公認している。
しかし高齢と病気により、2006年には弟のラウルに議長職などを暫定的に委譲。2008年には正式に引退を表明し、2011年には共産党第1書記からも退任した。以後は政府系メディアのコラムで対米批判などを続けるも、国民の前に姿を見せる機会は減っていく。
2015年7月にアメリカとの国交を回復。2016年3月にはバラク・オバマ大統領が現職のアメリカ大統領として88年ぶりとなるキューバ訪問を果たした。2016年11月25日に90歳で死去したことが弟のラウルによってキューバ国営テレビで発表された。
現在でもキューバはアメリカから禁輸措置を受けている。これに対し、キューバ国内では反米プロパガンダ[1]を打ち出して体制の引き締めを図っている。なお、アメリカはキューバのハリケーンなどの被害に対する人道的支援は例外的に行う姿勢を見せているが、フィデルはアメリカの申し出に感謝を表しながらも、「もし真の協力の意志があるならキューバに不可欠の輸出を許可し、アメリカ企業による信用供与を妨害すべきではない」として支援を拒否している。
年表[編集]
- 1926年 - キューバ東部のオリエンテ州(現在のオルギン州)でビランで誕生。
- 1953年 - 当時のキューバ政権であるバティスタ政権に対して武装蜂起するが失敗し、逮捕される。
- 1956年 - チェ・ゲバラとキューバ国内に潜入してゲリラ戦を開始。
- 1959年 - 1月1日にバティスタ政権を打倒。2月に自ら首相に就任して政権を掌握。
- 1961年 - アメリカがキューバに対して断交を通告。カストロはソ連に接近。
- 1962年 - ソ連製ミサイル配備の撤去を求めてアメリカがキューバを海上封鎖する(キューバ危機)。
- 1976年 - カストロが国家評議会議長に選出されて元首に就任し、党・軍・行政の全権を独占。
- 1996年 - アメリカでキューバ経済制裁強化法が成立する。
- 2006年 - フィデル・カストロが病気のため弟のラウルに議長職などを暫定的に委譲する。
- 2008年 - 正式に引退を表明。
- 2011年 - 4月に共産党トップの第1書記から退任。
- 2015年 - 4月にパナマで59年ぶりとなるアメリカとの首脳会談が行なわれる。7月にアメリカと国交回復。
- 2016年 - 3月にバラク・オバマ大統領がキューバを訪問する。11月25日午後10時29分(日本時間11月26日午後0時29分)に死去。90歳。
人物像[編集]
フィデル・カストロは親日家であり、この影響で日本とキューバの経済関係は良好である。フィデルは核兵器廃絶に関心を寄せ続けており、盟友のゲバラから「広島に行ってみろ」と言われていたこともあり、2003年3月に広島市を訪問して原爆資料館などを見学している。(ゲバラは1959年に広島を訪問している)。なおこの際、被爆者の生活、精神的肉体的苦痛の有無など質問を何度も繰り返し、フィデル本人も来てよかったと述べたという。
政治的に独裁者としての色彩が強く、共産党以外の政党を認めない民主集中制を志向し、反対勢力は「米帝国の手先」のレッテルを貼って弾圧したが、国民の人気は高く「フィデル」とファーストネームで呼ばれていた。また多くの独裁者と異なって自らへの個人崇拝を禁止し、自分を含む存命中の政府幹部の銅像建立などは絶対に許さなかった。また、実の息子でも政治的な能力が無いとわかれば職から解任して私的な縁者の取り立てを許さなかった。教育や福祉を充実させ、中南米随一の識字率や乳幼児の低死亡率を達成するなど事績も多い。存命中にアメリカから600回に及ぶ暗殺未遂計画があったとされるが、追い詰められながらも政権転覆を免れた理由に自らの身を削って国政をとる無私の指導者像としてのカストロがあったためともいわれる。
キューバとベネズエラは中国と友好関係だが、カストロはどちらかと言うと冷戦時代の影響で親露的であるのに対し、チャベスは中国・ロシアともどちらも友好的であり、両者の共通点はアメリカばかり批判して中国の虐殺支援やチベット人迫害に対してもチャベスとともに黙殺して北京オリンピックを賛美して、又貿易関係や宇宙開発でも密接である。
脚注[編集]
- ↑ とくにジョージ・W・ブッシュ政権に対する広告の内容は『ブッシュはヒトラーに並ぶ殺人者』『ブッシュに騙されるな明日の幸せを失う』『アメリカに亡命する奴はテロリストだ』という極端なものであった。