スペイン風邪

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スペイン風邪(すぺいんかぜ)は1918年頃から1919年にかけて世界的に流行したインフルエンザの通称である。

名称について[編集]

このような名称になったのは、発生当時、第一次世界大戦により各国は報道管制を敷いており、中立国で報道管制を敷いてなかったスペインの王室関係者が感染して、これが報道されたためである。風邪とインフルエンザは全く異なる病気だが、当時の日本にはインフルエンザの名称はあまり知られておらず、「はやり風邪」、「流行感冒」という言葉が多かった。現在では「スパニッシュ・インフルエンザ」とされるが、現在でも「スペイン風邪」、「スペインかぜ」が使われることが多く、単なる「歴史用語」でもない。

概要[編集]

発生した当時の1918年はウイルスの存在自体が知られておらず、免疫学も黎明期のためワクチンもなく、治療は対症療法しかなかった。さらには医師看護婦も感染し、医療崩壊の危機にまで至った。史上最大のパンデミックであった。

従来のインフルエンザウイルスが感染拡大に伴う増殖によって突然変異を起こし、人類がこれまで接触したことのない未知のウイルスに進化した。若年層の致死率の高いウイルスになった。

感染の拡大[編集]

発生地の正確な場所は明確にわからないが、有力なのはアメリカ合衆国1918年3月としている。第一次世界大戦に参戦したために多数の若い兵士が駐屯地の間を移動し、ウイルスが広がって感染者が増えていった。国内の駐屯地には野戦病院が設けられたがそれでも感染者の収容が追いつかなかった。1918年9月28日フィラデルフィアで行われた自由国債の応募のための軍事パレードが20万人を集めて行われ、医療関係者の懸念をもとに強行開催された数日後、多数の感染者が発生し、1919年3月までに15785人の死者が出た。医師看護婦にも感染が広がり、感染者は医療を受けられなくなった。

世界各国への感染拡大[編集]

ヨーロッパ諸国では既に1918年3月頃から感染が始まっていたが、これは、アメリカ合衆国からヨーロッパへの人の動きがあったからである。しかし、同年4月からアメリカ軍がヨーロッパ戦線に投入され、駐屯地、前線で広まり、さらに都市に広まった。これによって参戦国は疲弊し、戦争の終結が早まった。1919年から始まったパリ講和会議では参加国首脳も感染した。

日本国内[編集]

日本では1918年夏に台湾巡業から戻ってきた力士2名が感染したとされている。やがて軍隊や学校でも広がり、死者が増え続けた。不要不急の移動の自粛、マスクの着用が新聞や政府広報で呼びかけられた。鉄道によって日本全国に広がり、マスクの値段が高騰し、郵便局簡易保険の加入申請も増加した。

富山県内[編集]

1918年10月24日富山新報富山県内での感染を初めて伝えた。翌日10月25日には富山日報高岡新報も感染を伝えた。11月10日までの富山県内の感染者数は20万人を超え、死者は800人を越えた。大日本帝国陸軍六九連隊1920年1月17日から患者十数人がでたので兵士の外出を禁止した。1月25日には患者累計140名、死者は3名に達し、治療を担当した軍医まで死亡した。[1]

感染の収束[編集]

4年間に渡る第一次世界大戦の死者は1900万人と言われるが、スペイン風邪の死者はそれを上回った。しかし、そこには派手な戦果などなく、感染が遠い過去の出来事となると次第に忘れ去られていった。これが再び思い起こされるようになったのは2020年に始まった21世紀のパンデミックであった。

パンデミックに至った原因[編集]

鉄道長距離航路の発達により20世紀以前に比べて移動する時間が短くなり、潜伏期間の間に長距離移動することによってウイルスが遠くまで運ばれた。公衆衛生についても対策も取られておらず、マスクをする習慣がなかった。

感染の特徴[編集]

1918年5月から7月にかけての死亡率は2%と高くなった。強毒化した原因はわからないが、多くの感染者の中でその一部が突然変異を起こしたというのが有力である。感染力が強くなった原因も同様である。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

スペイン風邪を題材にした作品[編集]

『愛と死』武者小路実篤

脚注[編集]

  1. 富山県内へは米原駅から北陸本線伝いにウイルスが広まったとされている。