アントニー・プロヴェンツァーノ
アントニー・プロヴェンツァーノ(英語:Anthony Provenzano、1917年5月7日 - 1988年12月12日)、通称:トニー・プロ(Tony Pro)は、アメリカ合衆国のマフィア幹部、労働組合幹部。ジェノヴェーゼ・ファミリーのカポレジームで[1]、同ファミリーの一派であるプロヴェンツァーノ・グループを率いた[2]。全米トラック運転手組合(チームスターズ)第560支部長、副会長。ナンジオ・プロヴェンツァーノは弟。
経歴[編集]
初期[編集]
1917年5月7日、マンハッタンのローワーイーストサイドで、シチリア移民のロザリオ・プロヴェンツァーノとジョゼフィン・ディスペンサ・プロヴェンツァーノの間の6人兄弟の1人に生まれた[3]。15歳のときに学校をやめ、H.P. Welch Trucking Companyで働くようになった。17歳のときにニュージャージー州ハッケンサックのターミナルで週給10ドルでトラックを運転し始めた[4]。若い頃はアマチュア・ボクサーだった[3]。
全米トラック運転手組合(チームスターズ)に加入し、1941年に職場委員となった[3]。ニュージャージー州ユニオンシティのチームスターズ第560支部に1948年から1958年まで執行委員として、1958年から1966年5月まで支部長として、1975年11月24日から1978年6月まで会計として勤務した[2]。この間、チームスターズ会長のジミー・ホッファと親しくなり、1950年代後半にニュージャージー州第73合同協議会会長、1961年にフランク・フィッツシモンズとともに副会長に任命された[5]。1940年代後半からジェノヴェーゼ・ファミリーの一派であるプロヴェンツァーノ・グループを率い、1961年にはチームスターズ第560支部を支配した[2]。1959年にロバート・F・ケネディが首席顧問を務めるマクレラン委員会で合衆国憲法修正第5条を44回引用した[3]。プロヴェンツァーノはニュージャージー州クリフトンとフロリダ州ハランデールに住んでいた[6]。
キャリア[編集]
プロヴェンツァーノは、第560支部で最も人気のあったメンバーの1人だったアントニー・カステリートを自分の支配力を脅かす存在と捉え、K・O・ケーニヒスベルクとサルヴァトーレ・ブリガグリオにカステリート殺害を指示した。1961年6月6日、ニューヨーク州アルスター郡でK・O・ケーニヒスベルク、サルヴァトーレ・シノ、サルヴァトーレ・ブリガグリオらはカステリートを鈍器で殴り、紐で絞殺した。その後、プロヴェンツァーノはケーニヒスベルクにカステリート殺害の報酬として15,000ドルを支払った。1961年8月に弟のサルヴァトーレを以前カステリートが占めていた受託者の地位に、同年9月にブリガグリオを執行委員の地位に、1963年2月にもう一人の弟のナンジオを執行委員の地位にそれぞれ任命した[2]。
1960年11月15日、プロヴェンツァーノは1952年1月から1959年6月の間にDorn Transportation Companyから労使間和平の見返りとして17,100ドルをゆすり取ったとして、強要罪でニュージャージー地区で起訴された。1963年7月12日に有罪判決を受け、7年の禁錮刑を言い渡された。1966年5月から1970年に収監され[2]、ペンシルベニアのルイスバーグ刑務所に4年半服役した。出所後5年間は組合活動を禁じられた[7]。服役中に郵便詐欺と陪審員買収の罪で収監されていたジミー・ホッファと確執があったとされる[8]。プロヴェンツァーノは刑務所にいても年金を受け取れるよう組合規約の改正を希望したが、ホッファが協力を拒否したことが原因だとされる[9]。ライアン・ホワイトの『True Crime: 12 Most Famous Murder Stories』によると、プロヴェンツァーノは自分がオープンしたいレストランへの融資を協力してほしかったが、ホッファは協力できなかった。その後、2人は刑務所で顔を合わせ、空港でプロヴェンツァーノがホッファの頭を瓶で殴る乱闘があったとされる[10]。
1971年に出所したホッファは組合の指導権を取り戻すことを計画したが、マフィアの複数のメンバーから反対された。1973年と1974年にホッファはプロヴェンツァーノに元の地位を取り戻すための支援を求めたが、プロヴェンツァーノはこれを拒否し、「お前の内臓を引きずり出すかお前の孫を誘拐してやる」と脅迫したとされる[11]。プロヴェンツァーノの組合内の反対派のうち少なくとも2人が殺され、また彼に反対意見を表明した人たちが暴行を受けた[12]。
1975年7月30日、ホッファは午後2時にデトロイト郊外のブルームフィールド郡区の「マーカス・レッド・フォックス・レストラン」でアントニー・ジアカローネとプロヴェンツァーノと会う予定だったが、その後、彼は二度と姿を現すことはなかった。ジアカローネとプロヴェンツァーノはホッファと会う予定があったことを否定しており、2人ともアリバイがあった。プロヴェンツァーノはホッファが失踪した日、ニュージャージー州ユニオンシティでスティーヴン・アンドレッタとトランプをしていたと捜査官に語った(1975年のAP通信の記事)[13][注 1]。ホッファ失踪から6週間後、デトロイトで連邦大陪審が開かれ、プロヴェンツァーノを含むホッファの拉致と殺害の第1容疑者9人(アントニー・プロヴェンツァーノ、スティーヴン・アンドレッタ、トマス・アンドレッタ、サルヴァトーレ・ブリガグリオ、ガブリエル・ブリガグリオ、フランク・シーラン、ラッセル・ブファリーノ、アントニー・ジアカローネ、チャッキー・オブライエン)は全員不起訴となった[16]。ホッファ失踪から10週間後、リチャード・ニクソンは大統領辞任後初めて公の場に姿を見せ、チームスターズ会長のフランク・フィッツシモンズおよびプロヴェンツァーノとゴルフをした[17]。
1975年12月9日、プロヴェンツァーノはアントニー・ベントロとローレンス・パラディーノとともに、ユーティカ・チームスターズ福利厚生基金からニューヨーク市内にあるウッドストック・ホテルへの230万ドルの融資に関して、反キックバック法違反の共同謀議でニューヨーク州南地区で起訴された[2][18]。1978年7月にこれらの罪状で有罪判決を受け、マンハッタンの連邦地裁で4年の禁固刑を言い渡された[2][3]。1976年6月23日、プロヴェンツァーノはブリガグリオとケーニヒスベルクとともに、1961年のアントニー・カステリートの死に関する謀議と殺人の罪でニューヨーク州アルスター郡で起訴された。1978年6月14日に殺人罪で有罪判決を受け、殺人の謀議罪は棄却され[2]、同年6月21日にニューヨーク州キングストンで終身刑を言い渡された[2][3]。1979年2月22日、プロヴェンツァーノはガブリエル・ブリガグリオ、アンドレッタ兄弟、ラルフ・ペレッキアとともに、1969年から1977年の間にシートレイン・ラインズ社にサービスを提供していたトラック運送会社から労使間和平の見返りを要求し受領していたとして、RICO法違反でニュージャージー地区で起訴された。1979年5月25日にこれらの罪で有罪判決を受け、同年7月10日に20年の禁固刑を言い渡された[2]。1980年11月18日にカリフォルニア州ロンポックのロンポック連邦刑務所に収監された[19]。
死去[編集]
1988年12月12日、心臓発作のため、ロンポック連邦刑務所近くの病院で死去した。71歳だった。死の1ヶ月前、鬱血性心不全の治療を受けていた。遺体はニュージャージー州ハッケンサックのセント・ジョセフ墓地に埋葬された[3]。大半の遺産をフランス系カナダ人の2番目の妻、マリー=ポール・プロヴェンツァーノに残した[1]。
人物[編集]
ケネディ暗殺事件[編集]
プロヴェンツァーノは1963年に労働搾取をめぐる裁判で有罪判決を受けたが、ロバート・F・ケネディはプロヴェンツァーノに有罪判決がくだるよう動いていたことをマスコミの前でも公然と認めていた。同年11月22日にロバート・F・ケネディの兄で合衆国大統領のジョン・F・ケネディが暗殺された。チャールズ・ブラントの『アイリッシュマン』に記載されたフランク・シーランの証言によると、11月22日の何日か前、シーランはブルックリンでプロヴェンツァーノからライフルの入ったダッフルバッグを渡され、ボルティモアでカルロス・マルセロのパイロット、デイヴ・フェリーとジェノヴェーゼ・ファミリーの男に渡したという[7]。
ホッファ失踪事件[編集]
ジミー・ホッファ失踪事件の第1容疑者の1人として知られる。1975年12月4日、デトロイトの連邦捜査官は連邦地裁の公聴会で、ある目撃者が「ジェームズ・R・ホッファの誘拐と殺害」に関わったニュージャージー州の男3人を特定したと公表した。その3人はプロヴェンツァーノの側近であるサルヴァトーレ・ブリガグリオ、その弟のガブリエル・ブリガグリオ、トマス・アンドレッタであった[9]。1976年1月から1977年2月に政府が発表した情報提供者でプロヴェンツァーノの運転手をしていたというラルフ・ピカードへのインタビューに基づく内部報告書によると、ホッファはアントニー・ジアカローネからプロヴェンツァーノと仲直りするための会合に招待された。チャッキー・オブライエンがレストランでホッファを拾い、トマス・アンドレッタ、ブリグリオ兄弟がホッファを待ち伏せている近くの家まで運転した[20]。その家にはフランク・シーランもいた[21]。ピカードはラッセル・ブファリーノがプロヴェンツァーノにホッファ殺害を命令したと主張している[20]。
チャールズ・ブラントの『アイリッシュマン』に記載されたシーランの証言によると、ホッファ殺害はブファリーノが具体的な計画を立て、アンソニー・サレルノがその指揮をとった。サレルノ率いるジェノヴェーゼ・ファミリーはホッファ殺害にプロヴェンツァーノ、サルヴァトーレ・ブリガグリオ、アンドレッタ兄弟の計4人を送り込んだ[22]。ホッファ殺害計画を知らされていないオブライエンが運転する車にブリグリオとシーランが乗り、レストランでホッファを拾った。ブリグリオは会合に出るほどの地位になかったため、ホッファとシーランだけが会合場所と称する空の家に入り、シーランがホッファを殺害した。家の中にはアンドレッタ兄弟が後始末をするためにいた[23]。シーランはブファリーノから聞いた話として、アンドレッタ兄弟がホッファの遺体を殺害現場の家から焼却先に運び、ブリガグリオを拾った後、プロヴェンツァーノに報告に行ったらしいとしている[24]。
親族[編集]
ニューヨーク・タイムズに掲載された訃報は、遺族として妻のマリー=ポール・ミニョン・プロヴェンツァーノ、4人の娘ジョゼフィン、マリー・マイタ、ドリーン・ルチンスキー、シャーロット・ポリレ、3人の兄弟ルイ、サルヴァトーレ、ナンジオ、2人の孫を挙げている[3]。マリー=ポールはフランス系カナダ人で、1961年に結婚した2番目の妻[1]。弟のサルヴァトーレとナンジオ、娘のジョゼフィンは全米トラック運転手組合(チームスターズ)第560支部の幹部を務めた[2]。
遺産はシャーロット・アイラ・ポリレという女性に1000ドル、残りを妻のマリー=ポールに残し、妻が亡くなった場合は3人の娘に分配すべきだとした。またジョージ・プロヴェンツァーノを勘当し、彼に遺産を与えてはならないとした。妻の弁護士はジョージは息子か継子の可能性が高く、ポリレが誰かは知らないとした[1]。
デトロイト・パートナーシップのカポレジームやストリートボスを務めたアントニー・ジアカローネ(トニー・ジャック)の妻はプロヴェンツァーノの近しいいとこだった[25]。
映画[編集]
2019年に公開されたマーティン・スコセッシ監督の映画『アイリッシュマン』では、スティーヴン・グレアムがアントニー・"トニー・プロ"・プロヴェンツァーノを演じている[26][27][10][28]。
脚注[編集]
注[編集]
- ↑ 大陪審ではニュージャージーの組合会館でサルヴァトーレ・ブリガグリオとトマス・アンドレッタとジンラミーをしていたと主張した(1985年のロサンゼルス・タイムズ)[14]。サルヴァトーレ・ブリガグリオはホッファが失踪した日、ニュージャージーでプロヴェンツァーノ、弟のガブリエル・ブリガグリオ、トマス・アンドレッタとトランプをしていたと語ったが、FBIは彼のアリバイを確認することはできなかった(2001年のロサンゼルス・タイムズ)[15]。
出典[編集]
- ↑ a b c d “PROVENZANO LEFT WIFE MOST OF HIS ESTATE”. sun-sentinel.com (1989年3月9日). 2022年7月12日確認。
- ↑ a b c d e f g h i j k “United States v. Loc. 560, Intern. Bro. of Teamsters, 581 F. Supp. 279 | Casetext”. casetext.com. 2022年7月12日確認。
- ↑ a b c d e f g h McFadden, Robert D. (1988年12月13日). “Anthony Provanzano, 71, Ex-Teamster Chief, Dies”. The New York Times 2022年7月12日閲覧。
- ↑ Skolt, Tony (2019年11月29日). “The Irishman: Real Life Gangsters From Philly and New York”. Den of Geek. 2022年7月17日確認。
- ↑ チャールズ・ブラント著、高橋知子訳『アイリッシュマン 上』ハヤカワ文庫NF、2019年、194、237頁
- ↑ Lubasch, Arnold H. (1978年3月26日). “Provenzano Is Convicted in Hotel‐Loan Kickback Case; Another Indictment Still Pending; Kickback or Interest Rate?; Jury Sequestered Throughout”. The New York Times 2022年7月17日閲覧。
- ↑ a b 『アイリッシュマン 上』276-278頁
- ↑ “Anthony Provenzano, Linked to Disappearance of Hoffa, Dies”. Los Angeles Times (1988年12月13日). 2022年7月12日確認。
- ↑ a b “HOFFA ABDUCTORS REPORTED NAMED”. nytimes.com (1975年12月5日). 2022年7月12日確認。
- ↑ a b Langmann, Brady (2019年12月3日). “'The Irishman' Makes Tony Pro Into a Joke — But the True Story Is Much More Sinister”. Esquire. 2022年7月12日確認。
- ↑ “THREAT TO HOFFA IN '74 IS REPORTD”. nytimes.com (1975年8月5日). 2022年7月12日確認。
- ↑ Hoffa, by Arthur A. Sloane, MIT Press, 1991.
- ↑ McBride, Jessica (2019年11月27日). “Anthony Provenzano Real Story: Who Was ‘Tony Pro’?” (英語). Heavy.com. 2022年7月12日確認。
- ↑ RISEN, JAMES (1985年7月27日). “But FBI Thinks It Knows Killers : After 10 Years, Hoffa Case Still Shrouded in Mystery” (英語). Los Angels Times. 2022年7月18日確認。
- ↑ McBride, Jessica (2019年12月1日). “Salvatore ‘Sally Bugs’ Briguglio: Real Story of His Death”. Heavy.com 2022年7月19日閲覧。
- ↑ チャールズ・ブラント著、高橋知子訳『アイリッシュマン 下』ハヤカワ文庫NF、2019年、126-127頁
- ↑ Newton, Michael 『Mr. Mob: The Life and Crimes of Moe Dalitz』 McFarland、2009年。ISBN 9780786453627。
- ↑ “UNITED STATES OF AMERICA v. ANTHONY PROVENZANO and ANTHONY BENTRO, Defendants”. ipsn.org (1977年11月11日). 2022年7月12日確認。
- ↑ “New York Organized Crime Figure Anthony Provenzano Dies”. AP NEWS. (1988年12月13日) 2022年7月18日閲覧。
- ↑ a b “Jimmy Hoffa: Disappearing Man - The Trial”. crimeandinvestigation.co.uk. 2022年7月18日確認。
- ↑ McBride, Jessica (2019年12月1日). “Salvatore ‘Sally Bugs’ Briguglio: Real Story of His Death”. Heavy.com 2022年7月18日閲覧。
- ↑ 『アイリッシュマン 下』268頁
- ↑ 『アイリッシュマン 下』「家にペンキを塗る」
- ↑ 『アイリッシュマン 下』108、118頁
- ↑ 『アイリッシュマン 上』48頁
- ↑ Busch, Anita (2017年9月14日). “Stephen Graham Will Portray Mob Boss Tony Provenzano In 'The Irishman'”. Deadline. 2022年7月12日確認。
- ↑ Tron, Gina (2019年11月27日). “Tony Provenzano Is One Of The Most Colorful Characters In 'The Irishman' — Who Was He In Real Life?”. Oxygen. 2022年7月12日確認。
- ↑ Adebowale, Temi (2019年12月7日). “Here's What We Know About Anthony "Tony Pro" Provenzano from 'The Irishman'”. Men's Health. 2022年7月12日確認。
関連文献[編集]
- マーチン・ショート著、小関哲哉訳『アメリカ犯罪株式会社』時事通信社、1986年。
外部リンク[編集]
- “MOB CHIEFTAIN TONY PROVENZANO DIES NEAR PRISON”. Los Angels Times. (1988年12月13日) 2022年7月18日閲覧。
- “Labor mobster 'Tony Pro' dies in prison”. UPI. (1988年12月13日) 2022年7月18日閲覧。
- “LESSONS LEARNED FROM THE TEAMSTERS LOCAL 560 TRUSTEESHIP”. U.S. House of Representatives - Committee Hearings. 2022年7月18日確認。
- Hunt, Thomas (2019年12月12日). “Exit of Hoffa foe, 'Tony Pro' Provenzano”. writersofwrongs.com. 2022年7月18日確認。
- jawp:en:Anthony Provenzano