馬忠 (蜀)

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馬 忠(ば ちゅう、? - 249年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将政治家徳信(とくしん)[1][2]。子は馬修。弟は馬恢

生涯[編集]

益州巴西郡閬中県の出身[1]。若い頃は母方の家で育てられていたため、元の姓を狐(こ)、名を篤(とく)と言った[1]。後に馬姓に戻り、名を忠と改める[1]

劉備に仕えて最初は吏となり、建安年間末期に漢昌県長に任命された[1]222年夷陵の戦いで劉備が陸遜に大敗を喫した際、巴西郡太守閻芝の命令を受けて5000の兵力をもって劉備の救援に向かい、既に劉備は永安に帰還していたがこの際に「黄権を失ったが狐篤(馬忠)を代わりに得た」と喜んだという[1][2]

223年に劉備が亡くなり、益州南部で反乱が起こると馬忠は諸葛亮から牂牁郡の太守に任命され、反乱鎮圧後に住民を慈しんで愛情をもって統治を行なったので蛮族らは畏怖しながらも馬忠を敬愛したという[1]233年に再び益州南部の蛮族が反乱を起こすとこれを平定し、この際に長期間失っていた越巂郡を取り戻した[1]鎮南将軍に昇進し、諸葛亮北伐を行なうと事務を取り仕切り、諸葛亮らが帰還すると南方の統治を担当するなどの離れ業をやってのけた優秀な政治家でもあった[1]。249年に死去[1]

三国志演義』では諸葛亮の南征の時から登場し、孟獲との戦いで4回目に捕虜にする武功を立てる[1]。しかし孟獲の妻・祝融夫人一騎討ちで敗れて孟獲軍に生け捕られ、後に趙雲魏延との一騎討ちで敗れた祝融夫人と身柄を交換される[1]。その後は諸葛亮の北伐に従い、名将張郃を討ち取るなど戦功を挙げている[1]。第102回で司馬懿に木牛流馬を奪わせる作戦を行なわせたのを最後に物語から姿を消した[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n 小出『三国志武将事典』P378
  2. a b 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、313頁

参考文献[編集]