顔之推
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顔 之推(がん しすい、531年 - 590年?)は、中国の南北朝時代の学者・政治家。字は介[1]。
生涯[編集]
山東琅邪の出身。顔家は南に移って東晋に仕えた貴族で、『周札』や『左氏伝』などの学も受け継ぐ学者一族でもあった[1]。之推の父は南朝梁の元帝に仕えて学問で活躍した人物で、之推も元帝に仕えて学問・文章で活躍し、左常侍・参軍となる[1]。しかし梁が侯景の乱で実質滅亡すると流浪の生活を送るようになり、さらに元帝の本拠だった江陵が北朝北周により陥落すると、之推は北周に拉致されて関中に移る[1]。
しかし之推は北周の圧政を嫌って妻子を伴い増水していた黄河を小舟で乗り出してまで北斉に亡命した[1]。北斉は之推を黄門侍郎に任命して重用したが、この北斉は結局北周に滅ぼされて之推はまた北周の配下となった[1]。後に北周も滅んで隋の時代になり、隋の統一の翌年に死去したらしい[1]。
熱心な仏教信者であったと伝わる[1]。また之推の著書である『顔氏家訓』は彼が仕えてきた王朝が変転する中での辛苦と見聞、体験が書き止められている[1]。