薛瑩

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

薛 瑩(せつ えい、? - 282年[1])は、中国三国時代西晋武将。父は薛綜で次男[1]。兄は薛珝。子は薛兼。孫は薛顒道言(どうげん)[1]

生涯[編集]

豫州沛郡竹邑県(現在の安徽省濉渓県)の出身[1]孫休即位前までに秘書中郎将の地位にあり、孫休即位後は散騎中郎将に任命される[1]。しかし病気により数年で辞職した[1]。孫休没後は孫晧に仕え、左執法、選曹尚書と昇進し、父と同じように皇太子の補佐役を兼任する[1]。しかし灌漑事業に失敗して孫晧の怒りを買い、広州への強制移住を命じられる[1]。この際は陸抗華覈らの取り成しで許された[1]280年に呉が西晋に滅ぼされる際には光禄勲の地位にあり、西晋に降伏する際の降伏文書を作成した[1]

西晋でも重臣として取り立てられ、散騎常侍に任命される[1]。著作に『新議』がある[1]

三国志演義』では最終回で登場し、呉滅亡の際に孫晧に降伏を勧めている。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l 小出『三国志武将事典』P339

参考文献[編集]