霜女覚書
霜女覚書(しもじょおぼえがき)とは、関ヶ原の戦い直前における細川ガラシャに関する覚書である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は細川ガラシャの侍女だった入江霜女という女性で、題名の「霜女」とは彼女の名前からのものである。この女性については、近江佐々木氏の一族で、近江7人衆の1人として知られた比良氏の娘といわれる。近江国田中城主の比良内蔵助の妹、あるいは妻の妹といわれ、近江国和邇城主の入江兵衛尉に嫁いで1男1女をもうけたが、入江が本能寺の変で織田信長を殺した明智光秀に属したので、戦後に殺されて彼女は未亡人となり、姉の夫だった米田是政の庇護を受け、その縁でガラシャの侍女になったという。後に京都の浪人・白井九右衛門と再婚し、ガラシャが自害する直前にその遺命で夫の細川忠興に自らの書き置きを届けるように命じられて、もう1人の侍女と共に細川屋敷から抜け出して使命を果たしたという。その後、白井と暮らし、晩年は娘(前夫との娘でかめ)の夫である白井友甫の下で過ごした。没年は明暦3年(1657年)5月なので、100歳近い高齢だった可能性がある。
この覚書については、忠興とガラシャの孫で当時は肥後国熊本藩主であった細川光尚が、正保4年(1647年)3月の参勤交代の折に、祖母の最期について語ってほしいと求められ、それを霜女が覚書の形にして仲介した長岡監物に書き送ったものといわれる。書いた日付については正保5年(1648年)3月19日[注 1]となっている。
経験者が書いたものなので、信頼性は非常に強い。ただし、覚書を書いた時点で恐らく90歳前後の高齢だった可能性がある。
別称は『お霜覚書』(おしもおぼえがき)。
内容[編集]
全1巻。本文は1つ書きの形式となっている。
慶長5年(1600年)7月12日、大坂にある細川屋敷の留守居である小笠原昌斎と河喜多石見の2人にお霜は呼び出され、石田三成が東軍の諸大名に人質を取ろうとしている風聞があることを伝え、お霜は急いでガラシャに伝えた。するとガラシャは、会津征伐に出陣する前に夫の忠興から「自分と石田は不仲だから、真っ先に人質にされる可能性がある。だからその処置を分別しておくようにと仰せられた」と述べて、お霜や昌斎らに言い含めた。
昌斎は既に忠利を人質として関東に送っており、もう差し出すべき人質がいないことを答え、石田を納得させて時間稼ぎするため、丹後国にいる忠興の父・幽斎を招くということにしてはどうかという策を立てたが、三成は納得せずに比丘尼をもって人質としてガラシャを求め、そして細川氏の縁戚に当たる宇喜多秀家の下に移るだけ、という条件を出すことでガラシャに来るように求めた。しかし、宇喜多秀家が西軍であることは明らかだったので細川屋敷では納得せずに議論が戦わされ、7月16日にしびれをきらした三成は書状をもって強くガラシャを人質として差し出すように求め、拒否するなら強制的に連行することを匂わせた。ここに至り、小笠原と河喜多は自害を決意し、その前に一戦に及ぶことも決めた。しかし、その用意を整える前に三成の手勢が細川屋敷を襲撃。しかも、表門を固める稲富が敵方に寝返ったため、小笠原がガラシャに急を告げ、ガラシャは自分の書き置きをお霜に預けて忠興に届けるように遺命。そして屋敷に火をかけて自害したという。