関山利一

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関山 利一(せきやま りいち、明治42年(1909年12月23日 - 昭和45年(1970年1月15日)は、囲碁棋士。鈴木為次郎門下。本因坊利仙。実力制の第1期本因坊。九段。関山利夫九段は子。関山利道九段は孫。日本棋院関西棋院所属。門下に梶原武雄9段、小山靖男9段、白石裕9段。

経歴[編集]

入段まで[編集]

1909年(明治42年)12月23日、「兵庫県尼崎市西長洲東通3の30」に生まれる。父は関山盛利四段、母は幸、五男であった。1915年、5歳の頃父より囲碁の手ほどきを受ける。大阪の明星商業に入学するが、碁に打ち込んで学業成績が落ち、二年生の夏に退学する。 1922年、十六世井上因碩(恵下田因碩)に八子より三子まで指導を受ける。1924年(大正13年)盛利は利一を叱り西瓜を投げつけたが、利一がかわして割れた西瓜を食べ始めた。盛利は怒り、勘当したため、利一は上京し鈴木為次郎の門下となる。 1926年(大正15年)に初段[1]

五段まで[編集]

1927年二段、1928年三段、1929年乙組四段、1930年甲組四段、1931年秋季大手合三等。1932年春季大手合二等。 1934年(昭和9年)、春季大手合優勝、秋季大手合優勝。五段に進む。 1935年(昭和10年)梶原武雄入門。 1936年(昭和11年)渡辺道江と結婚する。26歳。 1938年春季大手合優勝、秋季大手合優勝。

本因坊位獲得[編集]

1939年(昭和14年)六段。第一期本因坊戦の予選が始まる。 1941年加藤信との六番勝負は、三勝三敗の打ち分けとなる。規定により。実力制第一期本因坊となる。本因坊利仙と号す。 1942年(昭和17年)七段。 1943年(昭和18年)本因坊戦挑戦者に橋本宇太郎を迎え、第二期本因坊戦・五番勝負が開始された。しかし神経性胃病のため第二局半ばで倒れ、棄権する。 1945年(昭和20年)東京空襲のため、岡山に疎開する。 1949年(昭和24年)大阪茶屋町に移住し、関西棋院に移籍する。後進の指導に当たる。 1951年(昭和26年)に八段。 1958年(昭和33年)に推挙により九段(6人目)。 1970年(昭和45年)1月15日{{大阪赤十字病院|大阪日赤病院]]にて急性肺炎のため死去。60歳没。長光寺において関西棋院葬が行われた[1]

第一期本因坊戦[編集]

第1期本因坊戦はプロ棋士の五段以上が参加して二年余に渡り行われた。5段級トーナメントは都谷森逸郎(棋正社)、藤沢庫之助村島誼紀篠原正美山口賛石(井上家)、長谷川章渥美六郎吉田操子が参加、村島、篠原が上位2名となる。6段級トーナメントは林有太郎木村廣造小野田千代太郎岩本薫細川千仭橋本宇太郎光原伊太郎呉清源久保松勝喜代前田陳爾、関山利一が参加。呉、久保松、前田、関山が上位4名となった。 最終トーナメントには呉清源七段(途中昇段)、久保松勝喜代六段、前田陳爾六段、関山利一六段、加藤信七段、木谷実七段、鈴木為次郎七段、瀬越憲作七段の8名が参加し、トーナメント戦が4回行われ、これにより獲得した点数の上位2名により、第1期本因坊を決める六番勝負を行うことになった。得点は1位6点、2位5点、3位4点、4位3点、1回戦敗者1点。第1次戦は呉清源が1位、関山が2位、第2次戦は関山利一が1位、加藤信が2位、第3次戦は木谷実7段が1位、前田陳爾6段が2位、第4次戦は呉清源七段が1位、瀬越憲作七段が2位であった。総得点は1位関山利一(16点)、2位加藤信(15点)、3位呉清源(14点)、4位前田陳爾(13点)となった。

点数の上位2名の関山利一と加藤信により、第1期本因坊を決める6番勝負を行った。6局とも先番勝ちの3勝3敗となり、規定により予選成績上位の関山利一が優勝し、本因坊利仙となった。昭和14年(1939年9月10日、日本棋院で第1期本因坊名跡継承式が行われた。

人物[編集]

  • 本因坊就任時、毎日新聞は病弱のため休場が多く、実力に比して昇進が遅れたが、堅実無比の棋風と質実な性格で、人気沸騰することはなかったが、これまで不成績の年はなく、実力第一人者と報道する。

参考文献[編集]

  1. a b 関山利夫(1981)『現代囲碁体系 13巻』講談社