金森長光

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金森 長光(かなもり ながみつ、慶長10年(1605年) - 慶長16年10月6日1611年11月10日))は、美濃上有知藩の第2代(最後)藩主。

生涯[編集]

父は初代藩主の金森長近。母は継室久昌院。幼名は父と同じ五郎八。長近が数えで82歳(満で81歳)の時に生まれた息子である。

長近の長男・長則天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際、織田信長信忠父子に殉じていたため、長光は継嗣が絶えていた長近の世継ぎとなる。慶長13年(1608年)8月12日に父が死去したため、家督を相続して第2代藩主となった。ただし、既に実子の誕生を諦めていた長近は養子可重を迎えていたので、長近の遺領のうち、飛騨国は可重が継承し、長光は上有知・関の2万石と河内国における3000石の2万3000石を継承することになった。

藩主になってから3年後の慶長16年(1611年)10月6日(あるいは8月23日)に死去。わずか7歳で勿論継嗣は無く、上有知金森家はこれをもって改易・絶家となった。法名は繍雲院殿謡室宗玉大居士。墓所は京都府京都市北区紫野大徳寺町の竜源院。

長光の遺領のうち、美濃の3000石は家臣の島氏肥田氏池田氏によって分与された。