趙高

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趙 高(ちょう こう、? - 紀元前207年[1])は、政治家宦官。秦を事実上滅亡に追いやった奸臣として非常に有名な人物である。娘婿に閻楽。弟に趙成がいる。

生涯[編集]

始皇帝の時代[編集]

趙高の出自はの王族の遠縁に当たるとされる[1]。また兄弟も数人いたとされ、彼の母は刑を受け、趙高もその影響から去勢され宦官になったという[1]。しかし始皇帝から有能なのを認められて中車府令(皇帝の車駕を司る官位)に任命された[1]。趙高は始皇帝の公子である胡亥に取り入ったという[1]

ある時、趙高は罪を犯し、その取り調べに蒙毅が当たり判決は死刑に値するとされたが、始皇帝により罪を赦免されたという[1]紀元前210年に始皇帝は巡行中に沙丘(現在の河北省広宗県の西北)で崩御するが、この時の趙高の官位は中車府令に符璽令(割符や御璽を司る官位)を兼ねていた[1]。始皇帝の崩御は丞相李斯、始皇帝が寵愛する息子の胡亥、そして趙高だけの秘密とされたが、趙高はこれを機に始皇帝の長男で後継者として遺詔を出されていた扶蘇ではなく、胡亥を擁立して傀儡にしようと画策した。胡亥は最初は渋ったが、「夫れ大行は小謹せず、盛徳は辞譲せず(大事を成すには末節にとらわれず、大礼においては小儀にこだわらないものだ)」と趙高は言って強引に説得した[2]。次に趙高は李斯を説得しようとした。李斯は最初は陰謀に加わることを拒否していたが「全ては二人の口にかかっている」「扶蘇が即位して蒙恬を丞相として重用すると、貴方は失脚する羽目になる。天下の大権と運命は、今胡亥様にあるのですぞ」と言って強引に説得した[3]。そして趙高は胡亥を皇太子に立て、扶蘇には偽詔を送って自害を命じ、蒙恬は逮捕して後に自害させた[3]

そして咸陽に戻ると趙高は始皇帝の喪を公表し、胡亥を二世皇帝として即位させ、自らは郎中令(皇帝に近侍して宮殿の警護を司る官位。侍従長)になって万事を決裁する立場になった[1]

二世皇帝の時代[編集]

その後、趙高は自らの権力を脅かす政敵は邪魔者として次々と葬った[1]。かつて趙高に死刑の判決を下した蒙毅も殺された[1]。しかし二世皇帝の時代になり民衆の不満が爆発し、紀元前209年に遂に陳勝呉広により陳勝・呉広の乱が発生する。この乱は秦の名将・章邯により鎮圧されたが、趙高はそれを言いことに胡亥を傀儡にしてさらに悪政を繰り広げた。反乱軍は項梁により再建され、この反乱軍も章邯により鎮圧されて項梁は殺された。しかし相次ぐ反乱に紀元前208年、丞相の李斯が胡亥に対して諫言したが二世皇帝は受け入れず、趙高は李斯とその息子の李由が謀反を企んでいると讒言し、李斯とその三族を皆殺しに追い込み[4]、自らが中丞相に就任し、こうして秦の実権は完全に趙高の手中に入った。

趙高は自らの権力を試すためにある時、二世皇帝に鹿を献上した[5]。ところが趙高はそれを馬と言い通し、周囲の家臣らも趙高の権勢を恐れて全員がその鹿を馬と言った[5]。これを「鹿を指して馬と為す」という故事成語になり[5]、「馬鹿」の語源になったという。

秦の名将・章邯はその後も各地の反乱軍を破っていったが、余りに功績を立て過ぎて趙高の障害となった。紀元前207年、鉅鹿の戦いで章邯は項梁の甥・項羽に敗れた。章邯は軍を建て直すために趙高に援軍を要請したが、趙高は援軍を寄越すどころか李斯と同じように章邯も讒言して罪をでっち上げ、その家族を皆殺しにした。このため、章邯は項羽に降伏せざるを得なくなり、秦軍の主力は消滅してしまった。

その頃、咸陽には劉邦率いる反乱軍が南から迫っていたが、趙高はこれを二世皇帝に知らせていなかった。しかし心ある家臣がこれを二世皇帝に知らせ、実情を知った二世皇帝は激怒して趙高を呼び出した。趙高は二世皇帝に処刑されることを恐れ、娘婿の閻楽に命じて反乱軍がやって来たと見せかけて二世皇帝のいる宮中に軍を乱入させ、二世皇帝に全ての罪をなすりつけて自害させてしまった。

最期[編集]

趙高は二世皇帝を自害させると、玉璽を自らの手元から離さず、自らが帝位に即位しようとしたが重臣らが自分を推戴しないのでそれを諦めた[5]。そして三世皇帝ではなく、新しい秦王として皇族の子嬰を擁立した[5]。しかし趙高は既に秦の将来を見限っており、密かに劉邦に子嬰の首を引き換えに自らを関中の王にするように裏取引を持ちかけていた。

子嬰は趙高の裏取引を察知し、またこれまでの横暴を憎んでいたため趙高の殺害を決定し、密かに自分の子供らや宦官ながら趙高を憎悪していた韓談らと共謀してその計画を実行に移した[5]。子嬰は玉璽を受ける儀式を行なうためとして5日間斎戒したが[5]、それが終わると子嬰は病と称して自らの屋敷に引き籠もってしまった。趙高は子嬰のご機嫌伺いの為に子嬰の屋敷を訪れたが、その時に子嬰と韓談らにより趙高は殺害された[5]。さらにその三族も皆殺しにされた[5]

人物像[編集]

趙高は有能な名臣・賢臣、そして忠臣を殺害し続けたまさに極悪人であった。それは三国志の時代に袁紹の部下の陳琳曹操打倒の檄文を書いた際に「昔、強大な秦が弱主を頂くと趙高が朝廷の権力を独り占めにして賞罰を思いのままにした。時人は脅迫されて直言する者はなかった。そのため最後には望夷宮で二世皇帝は彼によって殺され、祖先の廟は焼き滅ぼされた。その汚辱は今なお世の教訓となっているのである」と取り上げていることからもよくわかるものである[5]

趙高が登場する作品[編集]

アニメ
テレビドラマ
漫画

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.287
  2. 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.134
  3. a b 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.135
  4. 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.289
  5. a b c d e f g h i j 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.288

参考文献[編集]