李斯

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李 斯(り し、? - 紀元前208年)は、中国宰相通古。子は李由李執ら。法家を思想的基盤に置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れ、趙高によって処刑された。

経歴[編集]

始皇帝の腹心[編集]

上蔡(現在の河南省上蔡県)の出身。最初は郡の小吏を務めており、その時に汚物を食べている便所倉庫で存分に粟を食べている鼠との違いがあるのを見て「人の腎不肖は、たとえば鼠の如し。自ら処る所に在るのみ」(人間の腎不肖もまた鼠と同じで、どこに身を置くかで決まってしまうのだ)と歎じた。そこで小吏を辞職して荀子の下に弟子入りして「帝王の術」を学んだ後、当時戦国最強であった秦に仕官しようとした。

当時、秦では政(後の始皇帝)が即位したばかりであったが、李斯はその政を補佐する呂不韋に認められて政の郎(近侍する官僚)に任命される。李斯は常々、政に機を逃がさずに大業を成すように進言し、それが政に認められて長史(丞相府の官吏長)、さらに客卿に取り立てられた。紀元前238年、呂不韋が嫪毐の変事により失脚し、その3年後に自決すると、李斯の権勢ならびに政からの信任は一層厚くなった。

政は李斯と同門であった韓非の著作を見てその才能を認め、ぜひ秦に招きたいと考えていた。ところが李斯は荀子と同門だったときから韓非の才能をよく理解しており、自分では到底かなわないと自覚していた。そのため、李斯は韓非が政の信任を得て自分にとって代わることを恐れ、韓非が敵国である公子であること、そのため韓のためには働くだろうが秦のために働くことはないだろうと讒言した。政は韓非を認めてはいたが、韓の公子であるがゆえに完全に信任しきることができず、といって殺すのも惜しいのでひとまず獄に入れた。李斯は獄中にいる韓非に対して毒薬を送って自決を勧め、韓非は遂に自決した。

同時期に、呂不韋や韓非などの他国者の変事が相次いだことから、秦国内では沸騰した客(いわゆる他国出身の重臣)を追放しろという声が高まり、当時まだ若かった政はこれに抵抗しきれず、逐客の令を出して追放しようとした。これに対して李斯は反対して政を説得し、その命令を撤回させている。その後、李斯は政の統一政策に全面的に協力し、官位は挺尉司法長官)に進んだ。

紀元前221年、秦によって中国が統一され、政は始皇帝と称するようになるが、この際に李斯は始皇帝より丞相に任命された。李斯は皇族に封じたり、功臣を諸侯に封じたりするのは、前代の歴史で血縁などが薄くなって後に独立を招いた禍があることから大いに反対し、始皇帝にこれを受け入れさせている。また様々な法律を定め、文字を統一したりする統一後の行政・政策を勧めたり、『詩経』『書経』や諸子百家の書を没収したりして、秦の統一政策に大いに貢献した。しかし李斯は権力の絶頂を極めながらも「物極まれば則ち衰う」(人臣の頂点を極めてしまったので、後は衰えるだけではないだろうか)と嘆息していたという。

始皇帝の死後[編集]

紀元前210年、始皇帝が最後の巡幸を行なった際、李斯は宦官趙高皇子胡亥と共に始皇帝につき従っていた。この巡幸の際に始皇帝が重病に倒れて崩御するが、始皇帝は崩御の直前に上郡に遠ざけていた長男扶蘇に対して「軍を蒙恬に預けて扶蘇は咸陽に戻り、始皇帝の葬儀を執り行うように」という遺詔を趙高に預けていた。李斯は始皇帝の崩御を知ると謀反や不測の事態が起こることを恐れてその死は公表せず、上奏や食事も生前通りにして生きているように装った。

趙高はこれを機に胡亥、李斯を説得した。胡亥には扶蘇に代わって自身が後継者になるように勧めて強引に説得する。そして李斯に対しては「すべては2人(趙高と李斯)の口にかかっている」と述べて、扶蘇と蒙恬を遺詔を偽造して自殺に追い込み、自分たちで権力を握ろうと説得しようとした。最初はさすがに李斯も激怒して陰謀に関与することを拒否したが、趙高は「扶蘇が二世皇帝に即位すれば蒙恬が丞相に任命される。そうなれば李斯様は失脚することになる。天下の大権と運命は、今は我々にあるのですぞ」と強引に説き伏せた。李斯はこのとき涙しながら「ああ、独り乱世に遭う。既に以て死する能わず、安くにか命を託せん」(ああ、こんな乱世に生まれ合わせてしまった。今や死ぬことすらできないからには、どこに我が運命を託せばよいのであろうか)と述べたという。

こうして趙高を主導者として、胡亥と李斯を抱き込む形で偽詔が出され、扶蘇と蒙恬は自決に追い込まれた。そしてその後、初めて始皇帝の喪が発せられ、胡亥が二世皇帝に即位したという。ただし、李斯は扶蘇の自決を知って喜んだとする記述がある(『史記評林』)。

最期[編集]

二世皇帝となった胡亥は非常に暗愚で、国政を顧みずに実権は趙高が掌握した。趙高は始皇帝の時代より続いた圧政をさらに厳しくしたため、遂に紀元前209年には陳勝呉広によって大規模な農民の反乱が勃発し、秦は騒乱状態となった(陳勝・呉広の乱)。この反乱に続くように劉邦項梁項羽なども相次いで挙兵し、秦が大混乱となる中でも、二世皇帝は趙高に政務を任せて自らは安楽な生活にふけっていた。

李斯は二世皇帝にたびたび諫言し、反乱の原因である賦役や税などの軽減など様々な政策を訴えたが、これらは受け入れられず、逆に二世皇帝に次第に疎まれるようになってゆく。そして趙高も李斯がある限りは自分が全権を握るのは決して無理と考えて、李斯を謀反の罪で処断しようとした。李斯の長男・李由が項梁らと結託して謀反を企んでいるとして趙高は李斯を捕らえた。李由は既にこの時に劉邦に敗れて戦死していたのだが、趙高は李由が謀反を計画していたとでっちあげて罪状を仕立てあげ、さらに李斯に対しては拷問を伴う自白を強要させた。李斯はそれでも罪を認めようとはしなかったが、度重なる拷問で最早李斯は受け答えすらできなくなり、取り調べで受け答えできないのが逆に罪を認めたとされてしまい、紀元前208年に李斯は咸陽の市において腰斬の刑に処されることになった。

処刑の直前、同じように獄中から引き出された次男を見て「吾、若と復た黄犬をひきて、俱に上蔡の東門を出で、狡兎をおわんと欲するも、豈に得可んや」(お前と一緒にあの黄色い猟犬を連れて郷里の上蔡の東門を出て、足の速い兎の狩りをしたいけれどもできなくなってしまった)と嘆いたという。李斯の享年は70歳を過ぎていたと推測されており、その三族はことごとく皆殺しにされてしまった。秦王朝は李斯の死により完全に人材を失い、2年後に崩壊することになる。

評価[編集]

彼は賤しい身分の出であったが、始皇帝の補佐役として活躍し、最後には統一を果たす役割をした。しかし、政治を正して主君の過ちを補うという務めを果たさず、おもねるばかりで権力を笠に刑を厳しくし、趙高の謀略に加担して嫡子の扶蘇を廃して庶子の胡亥を立てた。諸将が反乱を起こした後でやっと諫言したが、余りに遅すぎた。人は皆李斯が忠誠を尽くしながら刑罰を受けたと弁護するが、とんでもないことである。そうでなければ、李斯の功績は聖人周公旦賢人召公とさえ、並ぶことになるではないか」と李斯の功績を認めながらも、その罪を手厳しく批判している(『史記』論賛)。

李斯が陰謀に加担したのは、確かに趙高の奸計によるものではあったが、しかし李斯の私利私欲から発するものである。はじめは趙高の陰謀に反対したけれども、それは自分を飾りたてて趙高と天下を欺いたに過ぎない。そのことは、その後扶蘇が亡くなったとき、大いに喜んだところに李斯の心情が露出している」として李斯を非難している(『史記』評林)。