蒙恬

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蒙 恬(もう てん、? - 紀元前210年[1])は、武将。祖父は蒙驁。父は蒙武。弟に蒙毅がいる。

生涯[編集]

蒙一族は蒙恬の祖父・父と始皇帝に仕えて天下統一に貢献した一族であり、紀元前221年に蒙恬はその家柄と功績により将軍に任命され、を討ち、その功績により内史(行政長官)となった[1]。始皇帝は統一事業を果たすと、蒙恬に30万の軍勢を与えて北方異民族の追討に当たらせ、河南(現在の内蒙古オルドス一帯)を攻め取らせ、さらに万里の長城建設を行なわせた[1]。その後、蒙恬は始皇帝の命令で上郡(現在の陝西省延安県楡林県)に駐屯した[2]。始皇帝が各地への巡幸を計画すると、蒙恬は九原(現在の内蒙古自治区五原県)から甘泉(現在の陝西省淳化県の西北の甘泉山)に至る道を造ったが、これは1800里にも及ぶ道で、完成はしなかった[2]

紀元前210年、始皇帝が巡幸中の沙丘において崩御した。すると趙高により胡亥李斯が抱き込まれ、始皇帝の遺詔が改竄されて上郡にいる蒙恬と始皇帝の長男である扶蘇の下に送られた[2]。蒙恬は詔を偽物と疑ったが、扶蘇は詔に逆らうことは不孝を意味するとして命令に従って自殺し、蒙恬は陽周(現在の陝西省子長県の西北)に拘束され、蒙恬の代わりに王離が護軍(武将間の調整を司る官)となった[2]

胡亥が趙高に擁されて二世皇帝として即位すると、蒙恬の下に使者が送られて自殺を命じられた[2]。蒙恬は祖父以来3代にわたる忠誠と讒言されて成王に一度は疑われた周公旦を例にして弁明したが、使者には将軍の言葉を二世皇帝に伝えるわけにはいかないと拒絶された[2]。蒙恬は「我に何ぞ天に罪ある。過ち無くして死するか」と大きく溜息をついたが、しばらくして思い直すと「自分にはもともと罪がある。それは臨挑から遼東まで万里にわたって城壁を築き、濠をめぐらせた。地脈を絶った者には天罰こそがふさわしいのだから」と言い、毒薬を飲んで自殺した[3]。その後、弟の蒙毅も二世皇帝と趙高の命令により自殺させられた。

人物像[編集]

蒙恬は始皇帝配下の名将の一人として評価されている。『史記』の著者である司馬遷も蒙恬を名将として認めている。

ただし名将だったにも関わらず、として司馬遷は蒙恬を厳しく批判している。それによると「自分(司馬遷)は長城を見たことがあるが、本当に人民の力を浪費した事業以外何物でもない。蒙恬は名将だったはずだから、戦後の疲弊した人民の事を考え、むしろそういう政策を諌めなければならないのに、始皇帝の意におもねって功績を得ようとした。だから兄弟が誅にあったのも当然だ。それを蒙恬自身は地脈を絶ったせいにしたが、そんな問題ではなかったはずだ」と批判している。

蒙恬が登場する作品[編集]

アニメ
漫画
  • 『キングダム』

脚注[編集]

  1. a b c 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.285
  2. a b c d e f 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.286
  3. 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.287

参考文献[編集]