章邯

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章 邯(しょう かん、? - 紀元前205年)は、将軍3秦王の1人。弟に章平がいる。秦末期の反乱軍討伐で多くの軍功を挙げて一時は反乱軍を圧倒したが、趙高により追い詰められて項羽に投降せざるを得なくなった。

経歴[編集]

九卿の末席である少府を務めていたとされ、これが事実なら当初は軍人ではなく文官だったことになる。

始皇帝の時代における章邯の事跡は明らかではない。紀元前210年に始皇帝が崩御し、紀元前209年陳勝呉広によって大規模な反乱が勃発し、各地で秦軍が敗れて紀元前208年には首都咸陽にまで迫る勢いを見せた。この際、章邯は二世皇帝の胡亥、実権を掌握していた宦官趙高によって将軍に任命され、反乱軍の討伐を命じられる。章邯は兵力が不足していることから、咸陽などで働いていた奴隷や罪人を兵力とした囚人軍を編成し、反乱の鎮圧にあたった。

まずは咸陽に迫っていた周章率いる軍勢を大いに破り、逃げる周章を徹底的に追撃して遂に曹陽でこれを殺した。そして胡亥・趙高が派遣した司馬欣董翳らの軍勢を与えられて自軍をさらに強化すると、反乱軍の中心をなしていた陳勝を城父で破った(陳勝は部下に殺される)。さらにを攻めて、魏王の魏咎を臨済で殺した。そして陳勝亡き後、反乱軍の中核を成していた項梁の軍勢をも定陶で大いに破り、項梁をも殺した。その後、北上して黄河を渡っての王である趙王歇を攻めた。この戦いも有利に進めていたのだが、項梁の甥である項羽が援軍にやってきたために苦戦を余儀なくされ、そして鉅鹿の戦いで項羽軍に章邯は大敗を喫し、この戦いで蘇角渉間王離らを失ってしまう。

章邯は敗戦から軍勢を再建するため、首都の咸陽に司馬欣を送って援軍を要請する。ところが咸陽では反乱軍の鎮圧で功績を立てていた章邯に対し、趙高がその功績を妬んで恐れたことから、章邯を敗戦の罪で捕縛して処刑しようとした。司馬欣はそれを事前に知らされて趙高の追っ手から逃れると、章邯のもとに戻って項羽に降伏するように勧めた。章邯はなおも迷っていたが、項羽側からもこれまでの功績が仇となっていずれ殺されることを白起らの故事から出され、さらに咸陽にあった自身の家族が趙高によって殺されたことを知り、遂に項羽に降伏した。

紀元前206年、秦が滅亡すると項羽から雍王に封じられて廃丘(陝西省興平県の東南)に居城を置いたが、項羽に降伏した際に章邯と共に降った20万の将兵は項羽に皆殺しにされていたことから、章邯は地元の民衆に大いに恨まれていた。紀元前205年、項羽によって漢王に封じられた劉邦韓信を大将軍として攻めてくると、韓信の水攻めにあって大敗する。章邯はわずかな兵力を率いて落ち延びようとしたが、韓信の追撃を受けて自害した。

章邯を題材とした作品[編集]