扶蘇

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扶蘇(ふそ、拼音:Fúsū、? - 紀元前210年)は、始皇帝の長男。(えい)。

生涯[編集]

始皇帝の長男。始皇帝の息子の中では最も聡明で仁愛もあったことから人望が厚く、後継者として期待されていた。紀元前212年に始皇帝が焚書坑儒を行なった際、扶蘇は父の行為を逆に諌めたことから不興を買い、始皇帝の命令で蒙恬のいる北方の上郡に送られた。これを左遷と見る説もあるが、始皇帝の長男である扶蘇を、よりによって秦帝国の軍権と30万の兵力を預かる大将軍の下に送り込んでいることから、もし蒙恬が扶蘇を神輿にして謀反したり、あるいは扶蘇が蒙恬を後ろ盾に謀反したりしたらかなりまずい状態になるはずである。にも関わらず送りだしていることから、始皇帝は扶蘇や蒙恬をかなり信任していたと思われる。

紀元前210年、始皇帝は巡幸の途中で死を悟り、後継者にあたって扶蘇を指名する遺詔を残して崩御した。すると宦官趙高丞相李斯らは始皇帝の末子で扶蘇の末弟に当たる胡亥を擁立するため、扶蘇と蒙恬に自殺を命じるように始皇帝の遺詔を偽造して使者を上郡に送った。

将軍の蒙恬はこの自殺を命じる詔を偽詔ではないかと疑い、扶蘇に自殺を思いとどまるように説得する。そして、咸陽に向かい始皇帝に拝謁して事情を聞いてから自殺しても遅くは無いと諌めたが、扶蘇は「それでは親不孝になる」と潔く自殺したという。

こうして最も始皇帝の後継者として有力だった扶蘇が死去し、二世皇帝には胡亥が即位した。

後年まで扶蘇は人望が厚く、二世皇帝の胡亥が趙高によって自決させられた後、後継者に扶蘇の息子とされる子嬰が擁立された際、扶蘇の息子ということで子嬰の人望は非常に厚かったといわれている。もし、扶蘇が二世皇帝に即位していたなら、秦帝国が史実のように急速に崩壊することはなかったかもしれない。