胡亥

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胡亥(こがい、紀元前230年? - 紀元前207年)は、の第2代皇帝(在位:紀元前210年 - 紀元前207年)。(えい)。始皇帝の末子であり、始皇帝に継ぐ第2代皇帝であることから二世皇帝(にせいこうてい)と称される。非常に暗愚だったとされ、始皇帝没後に即位するも自らは安楽にふけって寵臣の趙高に政務を一任して秦帝国を事実上の滅亡に追い込んだ愚帝として知られている。

生涯[編集]

即位するまで[編集]

始皇帝の末子で母に関しては不詳。父に仕える中車府令宦官だった趙高とは非常に早くから懇意にしていた。

紀元前210年、始皇帝の最後の巡幸に従う。この巡幸で始皇帝は崩御し、遺詔で胡亥の長兄である扶蘇を後継者にするように指名されていたが、趙高はこの遺詔を握りつぶすと胡亥に対して即位するように勧めた。胡亥は当初は拒否していたが、趙高は「夫れ大行は小僅せず、盛徳は辞譲せずと言うではないか」(大事を成すには末節にとらわれず、大礼においては小儀にはこだわらないこと)と言って強引に説得する。そして李斯をも抱き込んだ上で、偽の詔を作り上げると扶蘇とその扶蘇に従う将軍の蒙恬に対して自害を命じるようにした。扶蘇はこの偽詔に従って自決し、蒙恬は命令を拒否して牢獄に繋がれた。胡亥は咸陽に帰還すると、そこで初めて始皇帝の喪を発し、その上で胡亥が偽の詔に従う形で即位し、二世皇帝となった。

暴政[編集]

二世皇帝は非常に暗愚だったため、政治の実権は郎中令(侍従長)となった趙高が事実上掌握した。趙高は二世皇帝の後ろ盾をいいことに、まずは始皇帝の公子たちや一族の子息らを次々と罪に陥れて処刑していった。ただしこれは胡亥の意思が働いていた可能性もある。彼らは胡亥にとってはライバルとなる存在であり、生きている以上は胡亥の地位を脅かす競争相手になり得るからである。

また趙高も自らのライバルとなり得そうな重臣の粛清を開始した。始皇帝の時代にその軍事の大権を任されていた名将・蒙恬は獄に繋がれていたが、趙高はこの蒙恬、並びに弟の蒙毅の処刑を主張した。二世皇帝自身は父親を支えた名将なのでためらっており、また皇族の子嬰からも「忠臣を誅殺して、節高無きの人を立つるは不可ならん」と諌めていたが、趙高はこれらの反対を押し切って蒙恬・蒙毅兄弟を死に追いやった。

さらに始皇帝の時代を支えた多くの名将、名臣を無実の罪で死に追いやり、これによりそれまで豊富な人材に恵まれていた秦帝国は一気に人材が不足してしまい、さらに宮中の腐敗も甚だしくなった。

二世皇帝は始皇帝の政策を基本的には受け継ぐ形で、皇帝自らの巡幸、膨大な宮殿の建設などを進め、国民に対しては過酷な賦役と税を課した。既に始皇帝の時代に限界に達していた国民の負担はこれによりさらに厳しくなり、遂に紀元前209年には陳勝呉広という農民によって反乱が起こされることになる(陳勝・呉広の乱)。この反乱に当初は蒙恬ら名将を失っていた秦軍は各地で連敗して首都の咸陽にまで迫る勢いを示した。しかし、二世皇帝は酒や女などの安楽にふけってろくに対処すらしようとしなかった。

趙高はこれに対して、少府章邯に主力軍を与えて反乱軍の討伐を任せた。章邯は各地で反乱軍を次々と破り、陳勝の軍勢は章邯軍の前に大敗して壊滅し、陳勝は部下に殺されて反乱はいったんは鎮静化した。

しかし、二世皇帝はこれで自身の所業を改めたりはしなかった。紀元前208年には始皇帝を長きにわたって支えていた丞相李斯をも趙高の讒言を聞き入れてその三族をまとめて処刑してしまう。これにより秦を支える有能な人材は完全に消え失せてしまった。また、この頃から項梁項羽劉邦らによる新たな反乱軍が誕生し、その勢力は拡大する一方だった。趙高は再度、章邯らを派遣してこれらを鎮圧しようとし、項梁は討ち取ったものの、項羽に章邯が鉅鹿の戦いで敗れてしまう。章邯は秦軍を再建するために二世皇帝に援軍を要請したが、咸陽では武功を立てすぎた章邯を恐れた趙高が章邯の謀反を二世皇帝に讒言し、それを受け入れた二世皇帝は章邯ら武将の家族を殺してしまう。こうして章邯と秦の主力軍は項羽に降伏することを余儀なくされ、秦の主力を成していた軍は消滅して秦の滅亡は最早避けられないものとなった。

最期[編集]

趙高は李斯を処刑に追い込んだ後、二世皇帝から丞相に任命されて全ての政治の裁断を任されるようになっていた。趙高はあるとき、自分の権勢を試すためにあることを実行する。

趙高は二世皇帝の前に鹿を献上するために連れてきた。ところが趙高はそれがであると言いだし、周りにいる重臣らにこれが馬に見えるか鹿に見えるかを問い質した。ある者は馬と言い、ある者は鹿と言った。趙高はこれを余興であるとして二世皇帝にそのまま鹿を献上すると、正直に鹿と答えた重臣を無実の罪で逮捕してすぐに処刑した。これは「鹿を指して馬と為す」という成語になっており、いわゆる馬鹿の起源でもある。趙高はこの行為によって自分の権力が二世皇帝より上回るものであることを周囲に示したのである。

章邯が降伏した後、最早反乱軍の対処は残された秦軍では不可能となっており、その中でも劉邦率いる反乱軍は咸陽に迫る勢いであった。趙高は二世皇帝に対して反乱に関する情報はほとんど報告していなかったので二世皇帝は実情を知らなかったのだが、さすがに咸陽の付近にまで劉邦が迫るとその情報を知らせる別の家臣がおり、それを知った二世皇帝は趙高を詰問しようとした。

ところが同時期、二世皇帝は上林苑に入り込んだ賊を自ら弓で射殺する事件を起こしていた。それを聞いた趙高は皇帝ともあろう者が自ら人を射殺するのは天から咎めを受けることになるから、望夷の離宮で祈るように進言し、二世皇帝はこれを受け入れて離宮に移る。そして、それから3日後に趙高は自らの娘婿である閻楽に軍を預けて離宮を攻めさせ、反乱軍の仕業と見せかけて二世皇帝を始末しようとした(望夷宮の変)。当初、二世皇帝は事情がわからなかったが、閻楽が出てきたことでようやく事情を察した。そして命乞いをし「公になるから、太守になるから、庶民になるから」助命してほしいと求めたが、閻楽は許さずに自害を強要した。二世皇帝は遂に観念して自決した。享年は24歳、あるいは15歳とされているが、命乞いする際に「妻子ともども庶民にしてほしい」と嘆願していることから、妻子がいることを考えると24歳の可能性が高い。

新たな君主には甥とされる子嬰が趙高によって擁立された。

人物像[編集]

胡亥は始皇帝が築き上げた強大な秦帝国を一代で滅亡に追いやったことから、非常に評価は低い。その遠因自体は既に始皇帝の時代に山積していたとはいえ、有能な人材を殺したり趙高を重用したりしたのは二世皇帝であり、そのため中国史上でも屈指の愚帝と見られることが多い。

三国志の時代に袁紹に仕えた陳琳曹操打倒の檄文を書いているが、その中で二世皇帝のことを「弱主」と評し、さらに二世皇帝が趙高に殺されたことを「趙高に朝廷の権力を一人占めさせて、賞罰を思いのままにさせたのだから自業自得」としている。