阿衡事件
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阿衡事件(あこうじけん)とは、仁和3年(887年)11月に発生した日本の事件のことである。阿衡の紛議(あこうのふんぎ)とも称される。
宇多天皇が即位した直後の仁和3年(887年)11月、天皇は藤原基経を関白に任命し、基経は高官に任命された際の慣例に従い辞退した。次いで辞退する基経に対する橘広相が起草した勅答が基経に下されたが、基経はその中の関白をもって阿衡の任とするとの表現を問題視した。阿衡は地位のみで職掌を伴わないとの藤原佐世の解釈に従って執務を放棄することで、このために政務が停滞することを意味するので、論争が生じたのである。これを収めるため、宇多天皇は仁和4年(888年)6月に左大臣の源融の斡旋により勅答を訂正し、改めて基経を関白に任命し、10月に基経の娘・藤原温子を女御とした。これは有能な新しい天皇に対して、実力者の基経が示した示威行動であったとされている。