諸葛融
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諸葛 融(しょかつ ゆう、? - 253年)は、中国の後漢末期から三国時代の呉の武将。諸葛瑾の子。兄に諸葛恪・諸葛喬。叔父に諸葛亮・諸葛均。字は叔長(しゅくちょう)[1]。
生涯[編集]
若い頃から気侭で経書の解釈を学び、博識だったが精確さに欠けていた[1]。孫権に召されて騎都尉になり、241年に父が死去するとその爵位を継いだ[1]。偏将軍・奮威将軍と歴任するが、父や長兄・諸葛恪が質素を好んだのに対して融は贅沢を好んだ[1]。252年に孫権が崩御すると孫亮に従い、長兄の魏征伐に従う[1]。しかし253年に長兄が孫亮・孫峻らによって殺害されると連座により、公安に駐屯していた融にも逮捕命令が出され、融は逮捕前に服毒自殺を遂げた[1]。不仲だった朱績に攻められて自殺に追い込まれたという[2]。
生年は不明だが、すぐ上の兄・喬が204年生まれのため、少なくとも50歳に近かった可能性がある。子が3人いたが、全員誅殺されている。
『三国志演義』には登場しない。