藤堂 嘉房(とうどう よしふさ、天文12年(1543年) - 慶長8年2月6日(1603年3月18日))は、戦国時代の武将。織田氏、豊臣氏、藤堂氏の家臣。通称は九郎左衛門・勝兵衛。諱は良家、良直とも言われる。法名は宗源。子に良政、忠蔵。
最初は長男の良政と共に織田信長に仕えた。後に丹羽長秀、豊臣秀吉、豊臣秀長に仕え、天正10年(1582年)の時点で5000石を食んでいる。
文禄3年(1594年)には藤堂高虎に仕えたが、秀吉から隠居料として2000石を与えられている。慶長5年(1600年)からは徳川家康に仕えた。その3年後に61歳で死去した。墓所は京都府の知恩院内の信重院。
長男の良政は関ヶ原の戦いで戦死し、次男の忠蔵は眼病により致仕して出家するなど、晩年は不遇だった。