荒木村次
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荒木 村次(あらき むらつぐ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。織田氏、豊臣氏に仕えた家臣。父は荒木村重で長男[1]。母は北河原三河守の娘。正室は明智光秀の娘[1]。兄弟に村基、岩佐又兵衛、荒木局ほか。子に村直、村常。
生涯[編集]
天正6年(1578年)9月30日、織田信長が堺の津田宗及屋敷を訪問した際に信長側近の御供衆として名を連ねている(『宗及記』)。同年に父が信長に対して謀反を起こした際には同盟相手の本願寺顕如からの起請文で父と並んで書状を送られているため、信長や顕如など多くの人物から荒木氏の後継者として認められていたことがうかがえる[1]。信長が村重に対して討伐軍を差し向けると、村次は尼崎城を守備し、天正7年(1579年)9月2日に有岡城を脱出した父を迎え入れた(『信長公記』)。また謀反を起こすに際して明智光秀の娘と離婚している(『陰徳記』)。
尼崎城もやがて織田軍により落城し、村次は父と共に逃亡した[1]。天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が横死し、羽柴秀吉が覇権を掌握すると秀吉に仕える[1]。天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いにも参加するが、この際に負傷して歩行不能になった[1]。
以後の経歴は定かではなく、年不詳で38歳で死去したという[1]。