義忠

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義忠(ぎちゅう、文明10年(1479年) - 文亀2年8月5日1502年9月6日))は、戦国時代天台宗僧侶足利将軍家の一族。足利義視の子で、室町幕府の第10代将軍足利義材の異母弟。

略歴[編集]

足利義視の子で、母に関しては不詳。ただ、『後法興院記』では義稙の異母弟と記録されている。

義忠が生まれた文明10年(1479年)、父の義視は応仁の乱のために美濃国亡命していたことから、彼は美濃で生まれたものと思われる。少なくとも文明11年(1480年)までは美濃国に滞在していたものと推測される。

時期不明だが、幼少期に出家して天台宗の実相院に入寺した。明応2年(1493年)4月、明応の政変が起こって兄の義稙が細川政元日野富子らによって将軍位から追われて追放された際、義忠は政変後も京都に留まることを許されている。明応3年(1494年)4月21日、近衛政家猶子となり、第11代将軍となった従兄弟足利義澄の許に出仕した。

文亀2年(1502年)8月5日、細川政元との対立から金龍寺隠居した義澄を見舞おうとしたが、その際に政元の軍勢によって逮捕され、直後に近くの阿弥陀堂において処刑された。

処刑の理由を『後法興院記』においては、政元が義澄を将軍位から廃立した際、後釜に義忠を立てようと画策し、その上でかつて自分が追った流れ公方の義稙と和睦しようとしたため、これを危惧した義澄が隠居を辞めて将軍に復帰する条件として、義忠の殺害を政元に命じたのだという。

この義忠殺害により、以後政元は義稙及びその一派との和睦は事実上不可能となり、後の永正の錯乱で義稙と義澄が徹底的に争う遠因の一つになった。