石田辰子

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

石田 辰子(いしだ たつこ、文禄元年(1592年) - 元和9年7月25日1623年8月21日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性石田三成の3女。弘前藩の第2代藩主である津軽信枚の正室であったが、後に側室に降格する。子に津軽信義。辰姫(たつひめ)、大舘御前(おおたちごぜん)、荘厳院(しょうげんいん)とも言われる。

生涯[編集]

豊臣政権の奉行である石田三成の3女。母は不明。

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉正室である高台院(おね)の養女となる。そのため、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父の三成が敗れて徳川家康斬首された際にも連座を免れた。

慶長15年(1610年)、弘前藩主の津軽信枚に嫁いだ。津軽氏の下には辰子の兄である石田重成が仕えており、津軽氏と石田氏は親密な関係にあった。信枚と辰子の仲は良かったが、慶長18年(1613年)に大御所となっていた徳川家康は自分の姪で養女である満天姫を信枚に嫁がせることを命じた。家康の命令であるため逆らえず、信枚は満天姫を新しい正室に迎え、それまで正室であった辰子は側室に降格となり、さらに満天姫をはばかり津軽氏の飛び地領である上野国大舘に身柄を移した。これにより辰子は大舘御前と呼ばれるようになった。

信枚は満天姫を正室にしながらも辰子をなおも愛し続けたという。元和5年(1619年)1月には信枚との間に嫡子である信義が生まれている。

満天姫も遅れること1年後の元和6年(1620年)に信義の異母弟となる信英を生んでいるが、信枚はあくまで辰子を愛しており、世継ぎには信義を指名し、信義を満天姫に養育させることで妥協させている。

辰子は信枚に先立ち、元和9年(1623年)に32歳の若さで死去した。

辰子が登場する作品[編集]

小説

映画

ゲーム