留賛
留 賛(りゅう さん、172年[1]か183年[2] - 255年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての呉の武将。字は正明(せいめい)[2][1]。子は留略・留平。
生涯[編集]
揚州会稽郡長山県の出身[2]。若い頃に郡の役人となり黄巾賊の首領である呉桓を討ち取るが、自らも足を負傷して片足が真っ直ぐ伸びなくなってしまった[2]。だが激しい気性の持ち主だった留賛は歴史書を読むうちに気がはやり、自ら刀で足の筋を切って激痛から気絶したが、足は伸びるようになり杷行しながらも歩けるようになったという[2]。この話を聞いた凌統から孫権に推挙され、留賛は軍功を立てて屯騎校尉となる[2]。しかし孫権は意向に従わない留賛を煙たがった[2]。一説に剛直でおもねることを知らなかったので、かえって孫権から一目置かれたとも言われる[1]。
252年に孫権が崩御すると孫亮に仕え、同年に孫権崩御の隙を突いて魏の司馬師が諸葛誕・胡遵らを呉に侵攻させると、留賛は諸葛恪・丁奉・呂拠・朱異らと共に東興の戦いで魏軍を大いに破り、この軍功により左将軍に昇進する[2]。
255年、魏で毌丘倹・文欽らによる反乱(毌丘倹・文欽の乱)が起こると、孫峻より左護軍に任命されて魏領の寿春に攻め込むが、この途上で病に倒れてしまった[2]。留賛は敵と戦う時はいつも決まって髪を振り乱して天に叫び、続いて声を振り絞って歌を歌いながら側近にも唱和させ、これで敵と戦えば敵なしだったという[2]。しかし病気の身では歌うどころか陣立さえままならない有様で、やむなく呉に帰還する途上に魏の武将・蒋班の追撃を受けて対処できないまま敗れた[2]。運命を悟った留賛は身内の若者に将軍の曲蓋と印綬を与え、剣で脅して逃亡させた後、自らは戦死を遂げたという[2]。
『三国志演義』では第108回の東興の戦いで登場するだけである。