沢海藩

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沢海藩(そうみはん)は、江戸時代前期から中期の慶長15年(1610年)から貞享4年(1687年)にかけて存在したである。藩庁は沢海城で、越後国蒲原郡沢海(現在の新潟県新潟市江南区横越地区)に存在した。新発田藩支藩で、藩主家は外様大名溝口氏。石高は当初は1万4000石であったが、最終的には1万石となった。

概要[編集]

新発田藩の初代藩主・溝口秀勝の次男・善勝は、慶長6年(1601年)に父から5000石を与えられた。慶長14年(1609年)には上野甘楽郡内に2000石を新たに与えられて7000石となった。

慶長15年(1610年)に父が死去し、新発田藩の第2代藩主は長兄の宣勝が継承。この際に善勝は2000石を残して兄に所領を返還し、改めて所領を得たいと嘆願して、宣勝は弟のその態度を認めて改めて1万2000石の所領を与えた。こうして善勝は大名に昇格し、越後蒲原郡沢海に藩庁を構えて1万4000石の沢海藩を立藩した。

その後、沢海藩溝口家は寛永11年(1634年)に善勝が51歳で死去すると、家督は長男の政勝が継いだが、このとき弟の助勝に3000石、安勝に1000石がそれぞれ分与されたため、沢海藩の所領は1万石となった。寛文10年(1670年)に政勝が死去すると、家督は長男の政良が継いだ。天和3年(1683年)に政良が死去した際、家督は養子の政親に継承させた。

この4代目の政親は加藤明友の次男で、賤ヶ岳七本槍で有名な加藤嘉明の曽孫である。政親の祖父・明友会津騒動を起こして大幅な減封処分を受けた暗君だったが、この政親もそれに劣らず暗君だった。貞享3年(1686年)、溝口家の家臣から政親の酒狂いが酷すぎる旨の訴えが実兄の加藤明英に出された。徳川綱吉にもこの不行状が知られて調査され、貞享4年(1687年)に綱吉は政親を江戸藩邸に逼塞させよという厳命を下した上で、沢海藩の所領は没収して改易とした。こうして沢海藩は4代で廃藩となり、その所領は天領となって沢海には代官が駐在することになった。

歴代藩主[編集]

溝口家

1万4000石→1万石 外様 (1610年 - 1687年

  1. 善勝(よしかつ)
  2. 政勝(まさかつ)
  3. 政良(まさよし)
  4. 政親(まさちか)

外部リンク[編集]