江島生島事件

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江島生島事件(えじまいくしまじけん)とは、正徳4年(1714年)に発生した江戸幕府の1大スキャンダル事件である。江島事件絵島生島事件絵島事件など呼び方は多い。

概要[編集]

事件[編集]

正徳4年(1714年)1月12日、大奥御年寄であった江島は、月光院(第6代将軍徳川家宣側室で、第7代将軍・徳川家継の生母)の名代として、家宣の祥月命日の墓参のために芝の増上寺に参詣した。家宣の命日は14日であるが、2日後は日柄が悪いとして2日早められたのである。墓参の帰路、江島は山村座で芝居見物をした後、観劇に同伴させた役者の生島新五郎と食事をして歓談し、楽しんだ。そしてそのため、大奥の厳しい決まりである門限の時間を過ぎてしまい、慌てて帰路につくも、桜田門に着いた時は暮れ5つ時(午後8時頃)で、既に門限は大きく過ぎており、城門は開かれなかった。江島一行は城門を開けるように命じるが、門番はこれに応じずそのうちに門限破りが江戸城内に知れ渡ることになってしまう。

処罰[編集]

こうして、江島は門限破りで処罰対象になった。処罰と言っても門限破り程度であれば、関係者も含めて謹慎程度で済むものである。ところが、江島の罪は門限破りではなく「役者の生島と情交に及んだ不義密通」に変更されていた。こうなると重罪になる。
本事件を捜査した大目付仙谷久尚、目付稲生正武により、連座で関係者が次々と摘発されてゆき、幕府、特に幕閣はこの罪状により、まず3月5日に江島を信濃国高遠藩にお預けとし、囲い部屋への軟禁処分とした。本来なら死罪流罪であるが、月光院の助命嘆願があって罪を減じられたという。しかし、江島の兄で旗本白井勝昌斬首された。

また、生島新五郎は三宅島遠島、山村座は廃絶となった。そしてこれを機に幕閣は江戸市中の芝居小屋に2階や3階の席を禁止して、芝居自体を厳しく取り締まる弾圧政策を取り出した。

また、江島の連座者として芝居見物に随従していた130名も厳しく処罰された。

その後[編集]

この事件は、江戸時代を代表するスキャンダルとして、その後芝居や映画、講談や小説の題材にもなっている。また、徳川氏の正史である『徳川実紀』にも記録されているスキャンダルである。

江島の連座には、本来ならば主の月光院にも及ぶはずだが、さすがに将軍の生母であるためか幕閣は月光院は連座から外している。しかし、江島をはじめ大奥女中67名、いわゆる月光院の側近・近臣を成していたメンバーがこのスキャンダルでほぼ壊滅に追い込まれ、それまで将軍生母として大奥で権勢を振るっていた月光院の権威は失墜した。

この事件は、そもそも家宣の死去からさかのぼる。家宣の死後、家継が第7代将軍になったことで、側室の月光院の権勢・権威が高まった。しかし家宣の正室である天英院はこの時点で存命であり、いわゆる正室と側室の権力争いが大奥で始まっていた。また、幕政においても家宣の信任で取り立てられた老中格の間部詮房、顧問の新井白石らと、土屋政直譜代大名老中の争いがあった。間部や新井らは家宣から家継の後見を遺言されていたので月光院に近く、そのため老中らが彼らの追い落としを企み、事実を改変されたスキャンダルだったのではないか、とする説もある。

何はともあれ、この事件により月光院の権威は失墜して大奥では天英院の権威が確立。2年後に家継が死去すると、第8代将軍において天英院の意見が重要視されて、天英院が推す徳川吉宗が就任することになった。

江島は、軟禁が赦され、城へのお召しはあったものの、高遠から離れることは許されず、失意の内に没している。生島新五郎は赦免されて生還した[注 1]が、すっかり老齢化し、役者復帰は叶わなかった。

関連作品[編集]

関連項目[編集]

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  1. 三宅島で逝去の説もある。