白井勝昌
ナビゲーションに移動
検索に移動
白井 勝昌(しらい かつまさ、? - 正徳4年(1714年))は、江戸時代中期の旗本[1]。
生涯[編集]
仮名は父の久俊と同じ平右衛門。父の久俊は元禄5年(1692年)11月6日に死去しているため、その死後に家督を相続したものと思われる。300俵取りの旗本であった。
妹に江戸城大奥に仕え、第7代将軍・徳川家継の生母・月光院付の御年寄となった絵島がいる。この妹の縁のためか、勝昌は大坂で破損奉行の役職に任命されていた際、不法行為を犯して大坂の町人から幕府に訴えられる醜態を晒す事件を起こしているが、小普請入りになるだけで許されている[1]。
正徳4年(1714年)に絵島生島事件が起き、妹の絵島が罪に問われると、2月2日に大奥から追放された絵島の身を預かることになった。勝昌の屋敷は飯田町にあったらしい。そして、この事件により勝昌も3月5日に連座で罪が問われ、死罪に処された。評定所における記録によると「妹・絵島の行跡を制止せず、傾城町へ相伴し、遊女を参会させ、あるいは狂言芝居へ伴って役者たちと会わせたりした」ことを罪として問われたという[1]。
弟の豊島常慶をはじめ、一族にも連座は適用されて処罰された。勝昌には長男に伊織、次男に平七郎がいたが、彼らはまだ少年だったため15歳になるまで親類預けとされている[1][2]。