松平物語

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松平物語(まつだいらものがたり)とは、戦国時代史料である。

概要[編集]

徳川家康松平元康を名乗っていた頃からの家臣・大河内政綱主人公としてその事績や戦歴などを記した1代記。ただ、バイアスは大河内に当てられているが、大久保忠員やその子・忠世の事績も詳しく述べており、恐らく忠員の娘が政綱の妻だったことからの関係かと推定される。

著者は政綱の嫡子秀元とされ、成立は寛文4年(1664年)5月だから、政綱の死から37年後ということになる。そのためかこの史料の信頼性を高めるためにわざわざ「其の場所へ携りし直の口跡を一言の詐欺も無く写した」と言っている。成立年代から考えて後代史料なので、恐らくはまだこの時期に存命していた戦国時代の体験者からの聞き書きなどを素にしたものではないかと思われる。

史料の題名については、大河内政綱が家康が松平氏を称していた時代から仕えていた古くからの家臣を強調するために付けられたものではないかと推定される。

内容は全2巻で、1巻は家康の今川氏人質時代における忠員の事績から始まり、吉良義昭武田信玄との戦いでの政綱や忠世の活躍、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いでの大敗後、忠世と政綱が信玄の軍勢に夜襲をかけたことまでを記している。2巻は、武田勝頼との戦いから織田信長豊臣秀吉時代での活躍を書いている。ただ、政綱が慶長4年(1599年)に末子・政信の刃傷事件で失脚したこと、3男・政勝泥棒事件などを書いており、必ずしも政綱の活躍や慶事などだけにスポットを当ててはいない。寛永4年(1627年)2月23日に政綱が83歳で死去した時点で、物語は終結している。

内容については家康の伯父とされる松平康信[1]永禄3年(1560年)3月に三河国で反乱を起こして忠員が活躍して自害に追い込んだとされていたり、武田勝頼との戦いの際に銃弾で胸板を撃ち抜かれた政綱がをたらふく食べて傷を治してしまったなどという信じ難い話が多数載せられており、史料性は低いと思われる。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. 恐らく松平信孝か。康信という名の人物は江戸時代前期の人物で、時代的に合わない。しかもこの人物は家康が今川氏の人質になった時に岡崎城を乗っ取ったとしている。

参考文献[編集]