岸田吟香

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岸田吟香(きしだぎんこう,1833年6月15日(天保4年)-1905年(明治38年)6月7日)は明治時代のジャーナリスト。四男岸田劉生は洋画家である。

初期キャリア[編集]

1833年美作国久米北条郡中垪和谷村(現「岡山県久米郡美咲町栃原」)の豪農の家に生まれた[1]。父は岸田秀治郎、母は小芳(およし)、五男三女の長男である。屋敷跡に「岸田吟香先生生誕之地」と記した標柱が建っている[2]。津山城下で漢学・剣術を学んだ。1852年、江戸に出て林図書頭の塾で学んだ。藤田東湖や大橋訥庵と知り合い、秋田藩や水戸藩で林の代講を務めた[3]。1856年、四国高松出身の漢学者の藤澤東畡が開いた私塾泊園書院に入門し、中国語と漢学を学んだ[1]

和英語林集成[編集]

1863年(文久3年)4月、眼病を患い、横浜でアメリカの宣教師ヘボンの治療を受けた。ヘボンの治療で全快した。ヘボンから和漢の語に詳しいことが認められ。彼の片腕となって日本初の和英辞書『和英語林集成』の編集を助けた。ジョセフ彦(浜田彦蔵)に英語を学ぶ。外国新聞を飜訳する『海外新聞』発行の手伝いをする。1867年、『和英語林集成』を刊行。1877年、新聞社を退社した岸田は、ヘボンから伝授された目薬「精錡水」を、銀座に開いた薬舗「楽善堂」で発売した。

新聞発行[編集]

民間で発行された日本最初の邦字新聞「海外新聞」を創刊した。明治政府は6月8日付けで太政官布告第451号を布告し新聞を許可制とした。しかし許可が下りた新聞は1紙もなかったから、事実上は新聞禁止令であった。1868年に『もしほ草』という半紙4つ折り数枚つづりの新聞を横浜で発行した。6月8日以降も発行を続けられた。それが『横浜新報もしほ草』である。アメリカ人ユージン・ミラー・ヴァン・リードを発行人としていたため政府は手を出せなかった。20編まで続けた[4]

1872年東京日日新聞』に入り、主筆に迎えられ、記者・編集者として活躍した。1874年の台湾出兵の際は従軍記者となり、報道は評判をよんだ。1877年(明治10)には新聞社を退社する。

教育家として[編集]

1876年、洋学者中村正直らと盲学校「訓盲院」を創設する。中国各地に病院を設けた同仁会や、上海の東亜同文書院の設立など、実業家・教育家としても業績をあげている。

岸田吟香記念館[編集]

1997年(平成9年)開設。岸田吟香に関する多数の資料を展示している。2016年(平成28年)11月25日、岸田吟香の研究家である杉山栄が収集した資料約120点が杉山家から岸田吟香記念館に寄贈された[2]

  • 所在地:〒709-3404 岡山県久米郡美咲町西川1001−7[5]

参考[編集]