教養

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教養とは、「耕す」を語源とした「カルチャー」の訳語である。大学での教養の講義は「リベラル・アーツ」とされる。人格的な成長を促すための営為といえる。

概要[編集]

人生を豊かに送るための知識、知能と、それに伴う豊かな人間性である。知識人としては当然身につけているものである。大概は日常の生活には不要のものとされるが、知識の敷居が広いことで未知の課題が解決できることもある。

普通学と混同されるが、普通学は教養や実学を学ぶため義務教育高等学校で行われる基礎教育である。ただし、普通学でも教養と重なるものがあり、[1]一概に誤りとは言えない。

詳細は「教養部」を参照

歴史[編集]

時代や地域によって教養の意義は異なるが、教養は一般大衆を支配する特権階級が大衆と差別化するために身につけるものであったことは共通する。しかし時代が下り、一般大衆にも教養を学ぶ機会ができた。

19世紀まで[編集]

古代ギリシアでは、労働奴隷が行うものであり、自由民は政治軍事に専念した。このために学問も発達した。重視されたのは哲学であり、これから自然科学文学が分化していった。これは後のヨーロッパやイスラム世界の教養となった。ローマ帝国では実学が発達したがここで使われたラテン語中世以降のヨーロッパ古典として重要な教養となった。中国では科挙は詩を作る試験であった。治水のような実学や軍事は技官や武官の仕事とされ、軽視された。日本では平安時代に「よきひと」というのは教養人という意味であった。和歌蹴鞠が重視された。江戸時代儒学が教養であった。

20世紀以降[編集]

アメリカ合衆国では大学の大衆化によって大衆にも教養を学ぶきっかけができた。その他の国も大学進学率向上によって教養を学ぶ機会ができた。

目的[編集]

教養が足りないと誤帰属を起こしやすくなるため、カモられるリスクが増加する。犯罪の手口は日進月歩しているので、その対策として教養は有効である。

具体例[編集]

  • 論理的な誤り - 「私が間違っていることは証明不能である」「ゆえに私は正しい」「正しい私が信じていることは正しい」といった、論理的な誤りを犯さないように気をつける。論理は「前提を共有している」「論理的な導出規則を共有している」からこそ成立するのであって、「一度も死んだことがない坊主が来世を説く」ことは笑止であある。
  • 誤った健康常識 - 「塩分を取ると高血圧になる」というのが健康常識とされている。もちろん食塩は劇薬ではあるが、「甘辛い味付を好む人は循環器系の疾患になりやすい」という相関はあるらしい。ただし、「コレステロールは身体に悪い」とかいった話が嘘だった(卵黄はコレステロールが多いとか、イカやタコはコレステロールが多いといったデマが信じられていた時代があった)例もあるので、うかつに信じると誤帰属中毒になる。他人に我慢をさせて苦しんでいるのを見るのが快なのは、単純にサディズムである。
  • 偏見に基づく決めつけ - 本物のプログラマは教養人だが、「プログラマは人格的に欠陥がある」と信じて営業に中抜きされて損をしているユーザは後を絶たない。
  • 責任逃れ - 「ちゃんとしたところに頼んだ」から、失敗しても自分の責任ではない、とする論理。オリンピックやら万博やらの大きなイベントは「大手代理店」がしゃしゃり出てくるが、けっきょくイカサマ野郎の草刈り場になりやすい。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]