憲法擁護国民連合

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憲法擁護国民連合(けんぽうようごこくみんれんごう)は、憲法改正に反対する日本社会党系の団体[1]。略称は護憲連合

概要[編集]

保守内閣および保守政党による「逆コース」の進展を背景として、1953年8月8日に片山哲有田八郎風見章海野晋吉の4人を中心に学者・文化人・国会議員150人が発起人となって、個人加盟制の平和憲法擁護の会が結成された[2][3]。1954年1月15日に平和憲法擁護の会が世話役、総評が実質的な推進力となって、憲法擁護国民連合護憲連合)が結成された[3]。役員は、議長・片山哲、代表委員・有田八郎、風見章、海野晋吉、三輪寿壮原彪[3]。参加団体は、左右両派社会党労農党の革新3党、総評、新産別総同盟など64労働団体、日中連など8中小企業団体、日農両派など6農業団体、主婦連など9婦人団体、在京3弁護士会、平和憲法擁護の会、学術会議大学教授連合文芸家協会全学連など合計135団体[4]。再軍備論者も含む広範な組織として結成されたが[5]右派社会党などに配慮して[6]、組織方針に「共産党系の団体は、これを加えないことにする」と規定した[5]。各都道府県に支部が組織され、護憲政党が改憲阻止に必要な3分の1以上の議席を獲得することを目標に選挙を闘い、1955年2月の衆院選、1956年7月の参院選でこれを実現した。護憲選挙による両派社会党の勢力増大は社会党の統一、ひいては保守合同のきっかけとなった[7]

1959年3月に安保改定阻止国民会議の結成に参加した。安保闘争の過程で1960年1月に社会党から民社党が分裂すると、同年5月3日に片山哲をはじめ民社・全労系のメンバーが護憲連合を離脱して憲法擁護新国民会議(新護憲)を結成した。1965年3月には共産党系の憲法改悪阻止各界連絡会議(憲法会議)が結成され、護憲連合は新護憲と憲法会議に対立・競合する組織となった[5]

1992年11月に総評センター解散後の平和運動を一体的に運営するため、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)との合同事務所を設置した[8]。1994年3月に憲法擁護・平和・人権フォーラムに改称した[5]。1999年10月22日に「食とみどり・水を守る中央労農市民会議」と統合し、原水禁が団体加盟する形でフォーラム平和・人権・環境(平和フォーラム)を結成した[9]。同年5月に総評センターの事実上の後身団体である「民主・リベラル労働組合会議」が解散しており、同会議の政治活動を連合政治センター、平和・国民運動を平和フォーラムがそれぞれ継承した[10]

平和憲法擁護の会の発起人となった人物に安倍能成鵜飼信成大内兵衛[11]中島健蔵中村哲[12]などがいる。護憲連合の議長を務めた人物に飛鳥田一雄石橋政嗣、中村哲、事務局長を務めた人物に水口宏三御園生等、代表委員を務めた人物に遠藤三郎宮崎龍介などがいる。

護憲連合結成時の加盟団体[編集]

革新3党
労働団体64団体
中小企業団体3団体
農業団体6団体
婦人団体9団体

出典[編集]

  1. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「憲法擁護国民連合」の解説 コトバンク
  2. 小島恒久田中慎一郎編『日本労働者運動史 2 戦後社会主義運動の再編成』河出書房新社、1975年
  3. a b c d e f g 月刊社会党編集部『日本社会党の三十年』日本社会党中央本部機関紙局、1976年
  4. 伊藤満『日本国憲法三十年』朝日新聞社、1975年
  5. a b c d 憲法擁護国民連合(護憲連合)[社]1954.1.15 法政大学大原社会問題研究所
  6. 憲法 あの時 ドキュメンタリー映画『シリーズ憲法と共に歩む』製作委員会
  7. 高畠通敏「大衆運動の多様化と変質PDF」『日本政治學會年報政治學』28巻、1977年
  8. 沖縄平和運動センター設立趣意書 沖縄平和運動センター
  9. 原水禁とは 原水禁
  10. 中北浩爾「比較労働運動研究(11)連合と政治PDF」『生活経済政策』No.137、2008年6月
  11. 安東仁兵衛『日本の社会主義政党』現代の理論社、1974年
  12. 歴史学研究会編『戦後日本史2』青木書店、1961年
  13. a b c d 日本労働年鑑 第28集 1956年版PDF法政大学大原社会問題研究所
  14. 杉原泰雄編集代表『日本国憲法史年表』勁草書房、1998年
  15. 全繊同盟史編集委員会編『全繊同盟史 第3巻』全国繊維産業労働組合同盟、1966年
  16. 日本婦人有権者同盟編『参政権と歩んだ40年 1945年~1985年』日本婦人有権者同盟、1985年

外部リンク[編集]