総評センター

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総評センター(そうひょうセンター)は、総評連合に継承できない政治運動や国民運動を継承するために結成した組織。

概要[編集]

1989年9月22日総評連合に「ただちに引き継ぐことの困難な運動」と「総評解散に伴う必要業務」を行うための「過渡的な機構」として設立した。総評加盟の38単産約357万人が総評センターに加盟したが、加盟を希望しながら拒否された国労(後に全労協に加盟)や、後に全労連に加盟した国交労連運輸一般建設一般全日自労日本医労連全印総連など11単産は加盟しなかった。予算規模は年約6億円、役員は真柄栄吉理事長以下約20人[1]。「社会党を支持し強める会」の組織化や選挙運動などの政治活動、原水爆禁止運動や護憲運動などの国民運動・平和運動、県評・地区労センターなどの地方対策、国際交流などの活動を行った[1][2]。存置期間は「一応五年を目途」(真柄理事長)としていたが[1]、連合の要望があったため[3]、設立から約3年半後の1993年3月31日に解散した[4]。なお同盟友愛会議中立労連は中立労組連絡会を設立して連合に継承できない政治運動や国民運動を行った。

総評センターの活動は、解散に先立つ1992年10月29日にセンター加盟の30単産と中立労組連絡会の電機連合が参加して結成された「社会党と連帯する労働組合会議」に引き継がれた[5][4]。1996年1月に日本社会党社会民主党に改称したことに伴い「社会民主党と連帯する労働組合会議」に改称した[6]。この間、1995年8月に自治労全電通全逓、電機連合など社会党支持の21単産が自民党新進党と並ぶ「民主・リベラル勢力」の結集を目指して「民主・リベラル新党結成推進労組会議」を結成したが[7]、1996年9月に社民党と新党さきがけの一部の議員らが民主党を結成、10月の総選挙で社民党が大敗、民主党も不振に終わったため、11月に「新党結成推進労組会議」は解散し、旧社会党系勢力は再び一本化した[2][8]

1997年7月30日に「社会民主党と連帯する労働組合会議」が解散、新たに「民主・リベラル労働組合会議」(中央労組会議)を結成し[4]、40単産が参加した[2]。1998年4月に新・民主党が結成されたことを受け、1999年5月21日に中央労組会議は解散した[2]。連合内の旧総評系労組と旧同盟系労組の政治活動は同年10月に設立された連合政治センターへと一本化された。平和・国民運動の分野は同年10月22日に「憲法擁護・平和・人権フォーラム」と「食とみどり・水を守る中央労農市民会議」が合流、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が団体加盟して結成された「フォーラム平和・人権・環境」(平和フォーラム)[9]に引き継がれた。

出典[編集]

  1. a b c 法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑 第60集 1990年版』労働旬報社、1990年
  2. a b c d 中北浩爾「比較労働運動研究(11)連合と政治PDF」『生活経済政策』No.137、2008年6月
  3. 総評センター[労]1989.9.22 法政大学大原社会問題研究所
  4. a b c 法政大学大原社会問題研究所編『新版 社会・労働運動大年表』労働旬報社、1995年
  5. 日本大百科全書(ニッポニカ)「日本労働組合総評議会」の解説 コトバンク
  6. 五十嵐仁『政党政治と労働組合運動――戦後日本の到達点と二十一世紀への課題』御茶の水書房、1998年
  7. 前田和男『民主党政権への伏流』ポット出版、2010年
  8. 法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑 第68集(1998年版)』労働旬報社、1998年
  9. 原水禁とは 原水禁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]