志賀城の戦い
志賀城の戦い(しがじょうのたたかい)とは、戦国時代の天文16年(1547年)閏7月に信濃国志賀城で行われた武田晴信と笠原清繁の戦いである。この戦いには上野国の守護で関東管領であった上杉憲政も笠原方に加担し、一大合戦(小田井原の戦い)に発展した。
概要[編集]
天文10年(1541年)に父の武田信虎を駿河国の今川義元の下に追放して家督を相続した嫡男の晴信は、父が行なっていた信濃攻めを継続し、大井貞隆ら敵対勢力を次々と打ち破って勢力を拡大していた。なお、Wikipedia日本語版では「大井貞隆は捕えられ、後に切腹させられた」と書かれているが、これは小説の話であり史実ではなく、貞隆は幽閉されて後に死去していると記録にあるだけなので信用しないでほしい。
天文16年(1547年)7月18日、晴信は佐久郡の志賀城攻めを開始。閏7月9日に大井三河守らの先発隊を出陣させ、自らも閏7月13日に出陣し、閏7月20日に佐久郡の桜井に着陣した。
『高白斎記』によると、閏7月24日卯刻から午刻まで晴信は志賀城を攻撃し、閏7月25日未刻に城内の水の手を抑えたとある。晴信の手勢にはさらに伊那郡松尾城主の小笠原氏なども加わって大軍となった。
8月6日の雨の中、卯刻に武田家の宿老である板垣信方が軍を率いて動いた。この時、志賀城を救援するために関東管領の上杉憲政が小田井原に陣取っており、それを打ち破るためであった。この小田井原の戦いについては、現在は武田側に数通の感状が残されており、それによると「今六日、申刻、佐久郡小田井原合戦」とあり、主に信濃の軍勢を中心にして武田側が大勝したという。『勝山記』においては、この戦いでは板垣のほか、甘利虎泰や横田高松、多田満頼らの大将が出陣し、その結果として上杉軍は大敗して大将が14から15人も討ち取られ、兵卒は3000人ばかりが討ち死にし、捕虜にした兵卒も処刑されたという。志賀城の笠原勢は、水の手を既に断たれていたため後詰に来た上杉勢と城から打って出て連携することができなかった。さらに晴信は見せしめのため、討ち取った将兵3000人以上の首を志賀城の周りに晒したので、城兵は戦意を失ったという。
志賀城は後詰が壊滅し、さらに水の手も断たれて既に絶望的な状況の中、8月10日午刻には外曲輪が焼かれ、子丑刻には2の曲輪も焼かれて残るは本丸だけとなった。翌8月11日、晴信は総攻撃をかけた。既に志賀城に戦う力はなかったが、城の周りに晒された首を見て城兵300人余は最後まで戦って玉砕し、牛刻には城主の笠原清繁、並びに援軍として志賀城に入城していた高田憲頼父子も自害して、志賀城は落城した。笠原清繁の首を挙げたのは、荻原弥右衛門という人物であり、晴信が彼に宛てた感状も残されている[1]。
ただ、晴信の戦後処理は過酷であった。援軍の将兵3000人を捕虜も許さず皆殺しにして、さらにその首を晒して見せしめにし、そして城兵も皆殺しにした。にも関わらず、『勝山記』では笠原清繁の未亡人を重臣の小山田信有に与えて甲斐国に連れて行くことを許したり、さらに城兵の家族など多くの男女を捕虜として甲斐に送り、親類のある者は2貫から10貫文の値段で引き取らせ、親類の無い者は奴隷として働かせたという。その後、晴信は8月13日に志賀城に入城し、8月21日に諏訪に帰陣し、8月22日に甲府に帰還した。
その後[編集]
援軍として参戦した上杉憲政は、既に前年に河越夜戦で北条氏康に大敗して多くの将兵を失っていたにも関わらず、この戦いでも多くの将兵を失い、関東における軍事力を大きく失って没落することになった。
晴信は勝利して佐久郡の大部分を支配して上州口も押えて小県郡へ進出する基盤を固めたが、この過酷な処置は村上義清ら残された信濃の敵対勢力を奮い立たせた。翌年には上田原の戦いで村上義清は大いに抵抗し、武田軍は板垣や甘利など多くの将兵を失う大敗を喫している。また、晴信に従っていた国衆などもこの過酷な処置で再度反乱を起こしたりする者もあり、結果的に信濃平定がさらに遅れる原因を作り出すことになった。
脚注[編集]
- ↑ 荻原弥右衛門宛晴信感状には「今十一日未刻、於信州佐久郡志賀城、頸笠原新三郎討捕之、神妙候」とある。