蒋欽
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蒋 欽(しょう きん、? - 219年)は、中国の後漢末期の武将。孫策・孫権の家臣。字は公奕(こうえき)[1]。子は蒋壱・蒋休。
生涯[編集]
九江郡寿春の出身。孫策が袁術の配下だった頃に側近となる[1]。孫策の江東平定に別部司馬として従軍し、各地を転戦して武功を立てた[1]。200年に孫策が死去すると孫権に仕え、彭虎が数万人を集めて反乱を起こすと凌統・歩隲・董襲らと共に討伐に当たった[2]。孫権が合肥の張遼を攻めた際には従軍し、張遼の襲撃にあった際には敗走する孫権を守りきった[1]。この功績により盪寇将軍に昇進する[1]。
蒋欽は昇進しても母や妻には粗末な衣服を用いさせて倹約に務めたが、これを知った孫権はすぐに豪華な衣服や装飾品を届けた[1]。かつて徐盛が蒋欽の部下を処罰しようとして孫権に止められたことがあり、そのため徐盛は蒋欽の報復を恐れていたが、蒋欽は公私混同せずに徐盛の能力を評価したため、孫権も徐盛も感心した[1]。このように蒋欽は聡明だったが教養には欠けており、呂蒙と共に孫権から勉学に励むように諭された[1]。その結果、呂蒙に劣らず成長して「人々の模範となる国士」とまで賞賛された[1]。
219年、関羽討伐戦において水軍を率いて参加するが、帰国途中で病にかかって死去した[1]。
『三国志演義』では周泰と共に強盗として登場し、孫策に帰順する。孫権に仕えて各地を転戦し、曹仁との戦いで先鋒を務めて大敗したため激怒した周瑜から斬られそうになるが周囲の取り成しで助かる。関羽討伐戦では孫権軍の一翼を務める活躍をしているが、なぜか呂蒙と違って関羽の亡霊の祟りの対象にはされていないし死去も描かれていない。