瓜生繁子
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瓜生 繁子(うりゅう しげこ、文久2年3月20日(1862年4月18日) - 昭和3年(1928年)11月3日)は、ピアニスト、教育者。東京音楽学校教授。益田孝の実妹。旧姓「益田繁子」「永井繁子」。日本で最初のピアニストと言われる。
経歴[編集]
- 1862年4月18日(文久2年3月20日)、父・益田孝義(益田鷹之助)、母らくの4女として江戸湯島猿飴横町に生まれる[1]。
- 1867年、5歳で江戸幕府軍医・永井久太郎(玄栄)の養女となる。益田孝は、余が家では女児は生育し難きため、繁子を五歳(実年齢は七歳)のとき、幕府軍医永井玄栄に遣わしたと記している[2]。7人兄弟姉妹中、女児では瓜生繁子だけが成人できた。
- 1868年、徳川家達の駿河国移封に伴い、養父に従い沼津に移る。沼津では習字と漢字の読み書きだけ教える寺子屋に通った。
- 1871年11月 、明治政府第1回、日本初の女子留学生として津田梅子、大山捨松と共に10歳で渡米。この後、米国で10年間を過ごす。
- 1872年、コネティカット州フェアヘブンのアボット宅に寄宿し、同家の娘のエレンが運営するアボット・スクールの生徒となり教育(小学校、中学校)を受ける。
- 1878年、ニューヨーク州ポキプシー町のヴァッサー・カレッジ音楽学校(3年制の音楽科)に入学[3]。
- 1881年、秋に帰国し、文部省音楽取調掛教授に採用される。学士号(Bachelor of Arts)はないが、ピアノを教えるには問題がなかった。
- 1882年、海軍軍人の瓜生外吉と結婚する。
- 1886年、東京音楽学校(現東京藝術大学)教員。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)で音楽と英語の教鞭をとる。
- 1892年、東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽科)のピアノ教授を辞職した。
- 1902年、東京女子高等師範学校の英語教授を辞職した。
- 退官後に従六位を贈られる。
- 1928年、夫の看病に明け暮れたが、自らも癌を患い、67歳で没した。
人物[編集]
- 日本の西洋音楽が単なる教養から芸術へ進化し、繁子の芸術家としての資質が問われるようになったことが退職に結びついたと言われる。
- 女子留学生の派遣には黒田清隆の建議があった。黒田は1871年の渡米でアメリカ女性の教養と地位の高さに感銘を受け、家庭で子女を育てる女性の教育の重要性を痛感した。帰国後政府に建議し、開拓使に女学校を設立し、女子留学生を欧米に送ることを提案したのである[1]。
- 益田孝は女子留学生の募集を知り、妹を加えようと独断で政府に応募し、受理された[1]。