峰山藩
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峰山藩(みねやまはん)は、江戸時代前期から明治時代初期にかけて丹後国に存在した藩である。藩主家は京極氏。藩庁は峰山陣屋。現在の京都府京丹後市峰山町(旧中郡峰山町)に存在した。
概要[編集]
丹後田辺藩主の京極高知の養子・高通は朽木宣綱の次男で3000石を領していた。元和8年(1622年)、高知が亡くなると、遺領の内1万石を分与され、合計1万3000石で大名に昇格して峰山に陣屋を構えたので、ここに峰山藩が立藩した。
寛文5年(1665年)に高通が死去したため、高供が後継者となるが、この際に弟の京極高昌に1000石、京極高成に500石を分与したため、峰山藩は1万1500石に減少する。さらに第4代藩主・高之が弟の京極高重に600石を分与したため、峰山藩は1万900石まで減少した。
小藩であったが、江戸幕府からは幕閣としてたびたび重用され、幕府の一番頭や若年寄を歴任している。有名な藩主が第6代藩主の高久で、彼は『鬼平犯科帳』で主人公・長谷川平蔵の良き理解者としてたびたび登場している。
文政年間に藩校・敬業堂が開設された。また、丹後縮緬生産の中心地として享保5年(1720年)頃から生産が開始され、この生産は大いに繁栄して小藩ながら峰山藩は豊かだった。
幕末になると第11代藩主・高富が慶応2年(1866年)に若年寄となって幕政に参与する。それが逆に2年後の戊辰戦争において明治政府から責任を追及されることとなり、高富は明治政府に帰順して謹慎し、家督を第12代の高陳に譲った。これにより峰山藩の帰順は認められ、そのまま廃藩置県を迎えて峰山藩は消滅した。
歴代藩主[編集]
- 京極家
外様 1万3000石→1万1500石→1万900石
- 高通 - 従五位下、主膳正。
- 高供 - 従五位下。主膳正。
- 高明 - 従五位下。隼人正。備後守。主膳正。
- 高之 - 従五位下。主膳正。
- 高長 - 従五位下。備後守。主膳正。
- 高久 - 従五位下。備前守。若年寄。
- 高備 - 従五位下。周防守。若年寄。
- 高倍 - 従五位下。備前守。
- 高鎮 - 官位は不詳。
- 高景 - 従五位下。右近将監。
- 高富 - 従五位下。備中守。
- 高陳 - 従五位下。備中守。