峰姫

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峰姫(みねひめ、寛政12年閏4月4日1800年5月27日) - 嘉永6年6月26日1853年7月31日))は、江戸時代後期から幕末徳川氏女性峯姫とも。江戸幕府の第11代征夷大将軍徳川家斉の8女。母は側室・お登勢の方(妙操院)。第8代水戸藩主・徳川斉脩正室。同第9代藩主・徳川斉昭養母美子。院号は峯寿院。第12代将軍・徳川家慶の異母妹で第13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂の叔母にあたる。家茂の父である徳川斉順の同母姉。

生涯[編集]

徳川家斉の娘で、Wikipediaではレベルの低い投稿者のためか「旧暦4月4日」と誕生日が勘違いされているが、実際には「閏4月4日」の生まれである。

生後翌日の閏4月5日、溜詰高家以下の出仕が命じられ、閏4月11日に七夜の祝儀が行われ、峯姫と命名された。5月11日に御台様御養となる。享和2年(1802年)3月11日に髪置が行なわれる。享和3年(1803年)6月1日、当時の水戸藩主・徳川治紀嫡男・鶴千代(後の斉脩)との縁組が成立する。12月23日、水痘治癒の祝事である酒湯を受ける。

文化2年(1805年)2月13日、鶴千代との結納が行なわれ、4月28日に輿入れした。この時の御用掛は牧野忠精が務めたという。

文化7年(1810年)5月5日に鶴千代は初めて江戸城に登城し、7月2日に元服して斉脩と名乗った。文化10年(1813年)10月19日、家斉とその正室・広大院による婚礼道具の上覧が行なわれ、文化11年(1814年)11月に婚礼道具の引き移しが行なわれる。

文化13年(1816年)閏8月に徳川治紀が死去し、斉脩が新しい藩主に就任したため、峯姫は藩主夫人となった。斉脩は峯姫のほかに側室を迎えていた形跡が無く、また峯姫との間に子供に恵まれなかった。このため、水戸徳川家の後継に峯姫の弟、つまり家斉の子である恒之丞(後の徳川斉彊)が養子にという話もあったが、斉脩には実弟に斉昭という弟がおり、この斉昭は水戸藩の主に下士層から支持を受けていた。結局、峯姫は子供を儲けることなく、文政12年(1829年)10月16日に斉脩が死去したため、11月5日に落飾して峯寿院と号した。

以後、峯寿院こと峯姫は斉脩の後継問題では斉昭を支持し、その養母として斉昭を助けた。斉昭は藩政改革を行いながらも幕府に睨まれるような行動が非常に多く、そのため幕府に処罰されることも少なくなかったが、常に峯姫はそれを助けたという。将軍も家斉から異母兄の家慶に代わり、斉昭が家慶の命令で強制的に隠居させられた際には後継者の徳川慶篤を助け、また斉昭の復権にも尽力したという。

嘉永6年(1853年)6月26日に54歳で死去した。法名は峯寿院殿観誉無量貞覚大姉。墓所は水戸徳川家の歴代藩主と正室が葬られた茨城県常陸太田市瑞龍山である。

峯姫の死により斉昭は幕府に対するバックアップを完全に失い、孤立を一気に深めていくことになる。また、峯姫の死は奇しくも兄の家慶が死んでわずか4日後のことであった。