山崎定勝

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
山崎 定勝
やまざき さだかつ
改名 右京進(通称)。家勝(別名)
性別 男性
時代 戦国時代から江戸時代前期
生年月日 不詳
死没日 不詳
肩書き 豊臣氏家臣
国籍 日本国旗.png日本
武器  
口癖  
名ゼリフ  

山崎 定勝(やまざき さだかつ、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将豊臣氏家臣伊勢竹原城[1]

略歴[編集]

山崎家盛の子とされるが[1]、家盛は永禄10年(1567年)生まれのため、子というのは経歴的に無理がある。ただ、別名の家勝などから、家盛の近親者だった可能性はある。

豊臣秀吉に仕え、天正16年(1588年)の後陽成天皇聚楽第行幸に供奉する。文禄3年(1594年)に伊勢竹原(現在の三重県津市)に1万石を与えられた[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、伊勢における他の西軍諸大名と共に伊勢口の警護を務める。その後、大坂福島口を守備し、伊勢安濃津城攻めに参加した。西軍が関ヶ原本戦で大敗すると戦場から逃亡し、改易処分となった。後に豊臣秀頼に仕え、慶長9年(1604年)8月の豊国臨時祭に参加していることが史料から確認されるが、それ以後は消息不明となっている[1]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d 渡邊大門「関ヶ原合戦人名事典」P254

参考文献[編集]