富永恭次

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富永 恭次(とみなが きょうじ、明治25年(1892年1月2日) - 昭和35年(1960年1月14日)は、日本陸軍軍人。人事局長、第4航空軍司令官などを歴任。最終階級は陸軍中将。フィリピンから台湾に敵前逃亡したことでも知られる。

経歴[編集]

太平洋戦争開戦前[編集]

長崎県出身。陸軍士官学校に進み25期卒業。その後陸軍大学校に進学し35期卒業。兵科は歩兵。 1938年(昭和13年)、近衛歩兵第2連隊長に就任。1939年(昭和14年)には参謀本部第4部長に就任。同年9月に参謀本部第1部長に就任。1940年(昭和15年)にフランスがドイツに敗北すると、これを機会に仏印経由の援蒋ルート・援蒋禁輸をフランスに承認させる。これを監視させるため・北部仏印に日本軍を進駐させるために参謀本部が西原一策陸軍少将を団長にして、監視団を仏印に送る。監視団が北部仏印進駐について交渉中に、陸軍の南進論に批判的な米内光政内閣が総辞職し、陸軍に融和的な近衛文麿内閣が発足する。 これを受け、富永は仏印に赴き強引に仏印進駐を認めさせる。このことによりアメリカは屑鉄・鋼鉄輸出を禁輸にする。 実際に進駐すると、協定より早くに越境し仏印軍と戦闘になる。この違反行為により東部軍・公主嶺陸軍戦車学校(満州)に左遷される。しかし、1941年(昭和16年)には人事局長に就任し陸軍中央に復帰する。

太平洋戦争開戦後[編集]

1942年(昭和17年)には東条英機陸軍大臣のもと、陸軍次官に就任し東条英機の腰巾着と呼ばれる。 しかし1944年(昭和14年)東条大臣が辞職し、後任の杉山元によって第4航空軍司令官としてフィリピンのマニラに移動させられる。フィリピンに赴任すると同年11月に陸軍初めての航空特別攻撃を命令する。1945年(昭和20年)には戦局は著しく悪化し、これを受けてか九九式軽爆撃機台湾敵前逃亡する。これは陸軍刑法に抵触する重罪で上官は激怒するがどうすることもできず、2月14日待命・5月5日予備役に編入された。しかしこれは不公平ということで7月16日第139師団長に任命され満州に赴任。敗戦後ソ連に抑留されている。

略歴[編集]

  • 1938年(昭和13年)3月1日-近衛歩兵第2連隊長
  • 1939年(昭和14年)3月9日-陸軍少将に昇進。参謀本部第4部長
  • 1939年(昭和14年)9月13日-参謀本部第1部長
  • 1940年(昭和15年)9月28日-東部軍付
  • 1940年(昭和15年)10月5日-公主嶺陸軍戦車学校長
  • 1941年(昭和16年)4月10日-人事局長
  • 1941年(昭和16年)11月6日-陸軍中将に昇進
  • 1942年(昭和17年)3月2日-兼功績調査部長
  • 1943年(昭和18年)3月11日-陸軍次官・人事局長事務取扱
  • 1943年(昭和18年)8月2日-免功績調査部長
  • 1944年(昭和19年)7月28日-参謀本部付
  • 1944年(昭和19年)8月30日-第4航空軍司令官
  • 1945年(昭和20年)2月14日-待命
  • 1945年(昭和20年)5月5日-予備役に編入
  • 1945年(昭和20年)7月16日-第139師団長